スーパーにて

午後6時10分。いつもよく行くスーパーの、いつもよく行くフリースペースで、何をするでもなくただ紙コップに入れた無料のお茶を啜っている。安上がりな人間だなあ、と、自分で思う。やりたいことも、行きたい場所も、ほとんど頭に浮かばない。私はこれから何をするのだろう。このスーパーでいつもよく買うバナナかリンゴかうどんか焼きそばを今日も買って、帰り道にある銭湯で汗を流し、家までの坂道をイヤホンで音楽を聴きながら歩く夜を過ごすのだろうか。途中でコンビニに立ち寄って焼き鳥を買ったりするかもしれない。駅前の喫茶店でパソコンをいじったりするかもしれない。少し足を伸ばして、三十分くらい歩いた場所にあるファミレスで漫然と絵を描くか、バックに入っている読みかけの本の続きを読んだりするかもしれない。でも、今の自分に思い付くのはそれくらいだ。そしてきっとそれくらいのことで自分はそれなりに満足してしまえるのだろう。安上がりな人間だなあ、と自分で思う。

ありがたいことに、今、私はまた横浜にある知人の家に滞在させてもらっている。今日の昼頃、知人は北海道に旅立って、これから私はまた一人で知人宅の留守番を任されることになった。ゴミを出し、家の掃除をして、庭の雑草を抜き、草花に水をやり、玄関先の落ち葉を掃いて、洗濯をして、皿を洗って、お世話になった人へお礼状を書く。訪ねて来る人がいれば、お茶を出す。なにか話をしたそうな様子を見せれば、相手をする。誰も遊びに来なければ、昨年から継続しているビリーズブートキャンプでもやって身体を絞るか、本を読んだり、絵を描いたりする。坂を登った先にある、静かで落ち着いた雰囲気の一軒家だ。ほんとうに、恵まれた日々を過ごさせてもらっていると思う。

いろいろな人がこの家を訪れる。この半年だけで、もうかなりの人と会っただろう。すごいことだ。おかげで随分と初対面の人に対する免疫が付いたと思う。今でも付き合いがある人もいれば、きっと一期一会になるのだろうなという人もいる。ずっと一緒にいるだけが、他人じゃない。一度でも関わったことのある人はだいたい頭の中に入っていて、一人で過ごしているときにそれぞれの顔を思い出しながら、「あのときはどうしてああいう風に接したのだろう」とか「もっとこういう風に話せば良かった」とか、いろいろなことを考える材料になっている。私も誰かの材料になっているだろうか。誰かの頭の中にいる私は、どんな姿で映っているだろう。

そういえば、他人と接する機会が増えるに従って、他人からの視線を無闇に気にしなくなっているような気がする。ある程度、満たされてしまっているのだろうか。自分の力で何かを成し遂げたという訳でもないのに、なんとなく穏やかな気持ちで日々を過ごせてしまっているのは、もしかしたら、私がただ今の状態に慢心しているだけなのかもしれない。私は今の私自身を支えている幸運をきちんと自覚できているだろうか。他人の長話を聞き流せるようになったり、通り一辺倒の敬語でメールの文章を書けるようになった私は、どうやって生きたらいいか分からないと呻きながら四方八方に唾を吐きつけていた頃の自分が持っていた真剣さを、まだ抱けているだろうか。

 

 

それから私は値引きされていた焼き鳥の五本セットを買って、フリースペースにあった電子レンジで温めて食べた。銭湯に行こうかとも考えたが、少し気分を変えたくなって、あえて都会の方までぷらぷらと足を伸ばすことにした。知人の家に滞在していると、あまりの静けさに自分が都会にいるということを忘れる。ほんの少し歩けば、夜でもたくさんの人が溢れている場所に行くことができる。それが私にとっての都会だった。コートを着込んだ女性たちの群れが、私の傍らを通り過ぎていった。