横浜にて

風邪を引いてしまった。左後頭部が10秒に一回くらいズキッと痛んで、顔が歪む。こういうときに楽しいことを考えようとしたって無理な話で、どうしても暗い方に気分が傾いていく。今は自分を癒すことを第一に考えたい。今はなによりも自分で自分を大切にする時間を持ちたいと思う。

風邪を引くまでの経路を考えると、なんというか、今までの自分の生き方というか考え方というか他者との接し方というか、そういう何か根本的な部分が間違っていたのかもしれないという思いに駆られる。今までの私は自分を殺して相手に合わせることばかり優先させてきたのではないか。自分を大切にできていなかったのではないか。その結果として他者すらも大切に扱えていなかったのではないか。頭や心より体の方がよっぽど自分のことをよく知っている。しばらくの間、頑張ろうと思ったって頑張れない今の状態でいることが、今の私にとって必要な何かを知るきっかけになるかもしれない。

最近一つ思うことがある。この世の中にはいろいろな人間がいる。それぞれがそれぞれなりのやり方で生きている。誰の生き方が正しく、誰の生き方が間違っているということはないはずなのに、ずっと一人で生きていけるほど強くはいられない人間たちは徒党を組んで集団を作り、その集団の中で規範とされるある一つの生き方を共有することによって、まるで自分が正しい存在になったかのような気分に浸る。自分が正しいと思いたい。その欲望から人は逃れられない。

完璧な人間はどこにもいない。誰もが欠落を抱えていたり、過剰さを持て余していたりする。過剰さは欠落の裏返しだ。欠落を埋め合わせようとして人は過剰になり、自分の過剰さは他者の過剰さとぶつかり合う。ある人間の過剰さがある人間の欠落と結び付いて安定的な関係を築いたり、同じタイプの過剰さを共有する者同士が仲間になって安定的な集団を作ったり。そういう風にして人は関わり、社会というものは成り立っているのかもしれない。人と人とはどのように関わり、どのように距離が生まれていくものなのか。欠落、過剰さ、そしてそれぞれの相性のようなもの。その人にしか持ち得ない独特な思考の偏りみたいなものが、その人の中のどこに起源があるのかを考えさせられることは多い。

自分にとって大切なことが、他の誰かにとっても大切なことであって欲しいと、人は思う。その誰かが自分にとって大切な存在であればあるほど強く思う。けれど、そうでなかったとき、その人は目の前の他者をどう思うだろうか。

相手のやり方を否定して、自分のやり方を貫くのか。それとも自分のやり方を否定して、相手のやり方に委ねるのか。私はどのどちらだろう。相手のやり方を否定できるほど強い確信が自分の中に見つからないから、きっといつも自分のやり方を探しこまねいているうちに、相手のやり方に合わせるしかなくなっているのだろう。いつまでもそれでいいのか。相手のやり方に合わせている内に自分のやり方を見失い、自分にとって大切なものを気付かぬうちに明け渡すことになってはいないか。

自分にとって大切なことはなんだろう、と、ここまで考えて、ふと思う。今の自分にとって譲れないもの。間違いなく大切だと思えるもの。これがなければ生きられないと思うもの。そんなものは自分にない、と、言い切ってしまえるほど強い確信も、今の自分にはない。それでも今の私を作っているのは、今までの私と関わってくれた他者なのだということを思わずにはいられない。他者とどのような関係を築くかということが私の全てだ。そしてだからこそ、私は他者に自分の全てを明け渡すかのような子供じみた態度を取ってはならないのだと思う。

自分の発言に責任を持つこと。自分の態度を一貫して揺るがせないこと。守るべきところは守り、場合によっては他者と衝突することを辞さないこと。今の私にできないことばかりだからこそ頭に浮かんでは言葉になる。悩んだまま、迷ったまま、考え込んだままの姿では、人は他者の前に立ってまともに話をすることさえできなくなる。自分の欠落を過剰さで誤魔化すのでも、他者の過剰さを安易に退けるのでもなく、どうすれば私は他者と丁寧に関係を築いていくことができるのだろうか。まずは寝て身体を休めたい。体調が良くならなければ始まらない。