四月十五日

22:21 公園

今日の日記を書き留めるべく、帰り道の途中で目に入った手近な公園のベンチに座った。スマホの電池も切れそうだし、早く帰って寝たいし、職質される前に深夜の公園から立ち去りたいので、要点だけささっと書く。

昨日は自分の人生について深刻に考えすぎて散々な内容を書き散らしてしまった。でも、私はわりとああいう風なマインドによくなる。基本的にはあの状態で生きていると言っても過言ではない。あれと戦いながら生きている。気をつけていても、ときどき自分が自分に勝手に食い殺されていくということが起きる。気をつけたい。気をつけてどうにかなることでもなさそうだけど。

何かのインタビュー記事でアルコール依存症の人が「今日は呑まなかった、今日は呑まなかった、という風に一日一日を乗り切っていくしかないんですよ」みたいなことを答えていたのをふいに思い出す。心情的にかなり分かる。私の状態もそれに近い。やめようと思ってもやめられない。やめよう、と宣言することでかえって自分を追い詰めてむしろ逆効果になることもある。

というのも、アルコール依存症は完全に治るということはないそうなのだ。だから、強く決意してある日から突然やめる、というのではなく、一日一日やめ続ける、という発想を持つこと。気長に構えること。そういうのが大切だとかっていう話だった。気がする。私はべつにアルコール依存症ではないけれど、たまたまアルコールでないだけで何かに依存してはいるのだと思う。何か特定の思考回路に依存していると言ったらいいのか。うーん、わからない。

ともかく、今日は銭湯に行ってきたのが正解だった。熱い湯と冷たい湯を三回くらい反復してきた。シャンプーが備え付けられていなかったのは残念だったが、計2時間くらい長湯できたのは最高だった。一人で来たからこそ、とことん長湯できる。長湯が好きだ。無闇矢鱈に一人で考えごとをしていると頭がよくない方にぼーっとしてきて死にそうになるけれど、湯に浸かりながら考えごとをすると、いつもとは違う感じで頭がぼーっとしてきて最終的にどうでもよくなる(良い意味で)。頭の中の問題を身体のせいにできるのがいい。身体を忘れて頭ばっかりになると詰む。

人生には、気持ちいい、とか、楽しい、とか、おもしろい、とかっていう要素があることを昨日は完全に忘れていた。

数日前に「人間の動機はすべて不純だ」とかなんとかって悟って、これはもしかしたら本当に本当にその通りなのではないか、と、それから一人でしこしこ噛み締めていたのだけれど、不純、っていうのは、そういうことでもある。そういうことっていうのはつまり、快、ということ。快は不純だ。自分だけのものだから。

何のために生きるのか。生きるために生きる、のではない、その先に楽しみがあるから生きようと思えるのではないか。楽しみがあるから、嫌なことでもやってみようかと思えるのではないか。

嫌なこと、っていうのは、自分がしたことのないことはもうだいたいがそうだ。何かが嫌だとかっていうことではなく、やったことがないから嫌、というのがかなり本質に近い気がする。その考えでいくと、やったことがないことの方が自分には多いのだから、つまり、もうほとんどのことが嫌ということになる。発想次第ではそうなる。

ただ、やったことあることばかりやっているのも嫌は嫌なのだ。どっちも嫌だから、もう嫌と嫌に挟まれて脳みそが腐ってくる。やったことあることばかりで嫌になってきたら、然るべきタイミングで次にいかないと腐って死ぬ。腐る前に環境を変える。その際はもうきっぱりと意図的に、自分が嫌だと思うものの中へ突っ込む。突っ込むときはもう「いやだなあいやだなあ」と思いながら死ぬ気で突っ込む。それしかない。

なんでこんなことを書いているかというと、今日は銭湯で水風呂に入ってきたから。水風呂は素晴らしい。あれは死を擬似体験できる。本当に大変素晴らしい発明だと改めて思った。

快か不快かで言えば、水風呂は快ではない。入るときはいつも「いやだなあいやだなあ」と思って入っている。でも、あの感じ。「いやだなあいやだなあ」と思いながら無理して入るあの感じは、いろいろと頭の中で考えまくってガチガチになった状態から、自分を解放させるために勇気を振り絞って「えいやっ」と飛躍した行動を取るときのマインドにかなり近い。

熱い湯に長く浸かると、頭がもんもんとしてくる。あれは自分の人生をシリアスに考えすぎて頭がもんもんとしてくる状況にちょっと近い。その状態で湯から出る。すると奥に、水風呂が見える。その瞬間、「あ、これはもしかすると問われているヤツだな」という思いがサッとよぎって、「あ、しまった」と思う。問われている。入るのか、入らないのか。見なかったことにするのか、そうでないのか。ここで入らなかったら、男が廃る。普段は、男がどうとか、ってジェンダー論的なアレであんまり好きな言い方ではないけれども、でも、ここで見て見ぬ振りをしたら、なんとなく人間として間違っているのではないかという気になる。これが人間の倫理というものかもしれない。そんな気持ちが、ふっと起こる。

このまま暖まった身体で銭湯を出ることもできよう。頭はもんもんとしているけれど、気分は悪くない。火照った身体は更衣室でゆっくり冷ませばいい。それが一番いい。そんな風に一方では思っている。

しかし、ここには水風呂がある。水風呂に入るとどうなるか。実はさきほど水風呂に入るのはどちらかと言えば不快だとか書いたけど、それも入るまでの話。ドボンと浸かった後の視界の開け方は、もう、いけない薬物でも投与したのではないかというほどの変性意識状態が訪れる。「あ、自分が思ってた自分ってこんなに外的な要因で呆気なく変わるんだ」ということを体感として感じさせてくれる。その体験の強度たるや。

しかし、意を決して水風呂に入ろうにも、足先から膝下へと少しずつ身体を水に浸していくときは「いやだなあいやだなあ」という気持ちがどんどん高ぶってきて、その冷たさがもう不快で不快で仕方ない。「いやだなあ」という気持ちはもう本当に言葉通り「いや」でしかないので、そのときはもう本当に辛くて苦しい。だからもう本当に水風呂に入るのを諦めたくなってくるし、実際どう考えてもやっぱり入るのをやめた方がいいのではないかという気持ちが頭の中をビュンビュンと飛び回る。身体が警告しているような感じだ。

じゃあ、いやなのにどうして入るのか。入ろうと思うのか。実は、そこにはもう論理的な解はない。膝下まで水に浸けた状態から、肩まで水に浸かる状態まで持っていく。その過程ではもう頭の中で起こっている気持ちと逆のことをするというイリュージョンを起こすしかない。これはもう完全なる賭け、思考の放棄、反知性主義、投企。思考で辿り付くことのできない体験の世界へ文字通り自分の身を投じるしかない。この厳しさ。この辛さ。まじで辛い。実際どうなんだ、やることやってんのか、おら。という粗暴な世界。恐怖の世界。まじで辛い。

今日の私も、水風呂に膝まで浸けたもののそこで膠着してしまって、そこからどう考えても入ろうという気が起こらなかった。諦めようと思って何度か暖かいお湯に戻ったりもしたけれども、でも何回目かの挑戦で、「これはいっちょもう行くしかないだろう」という気持ちが自分の心のどこかでまだかすかにくすぶっているのを確かめていると、ふと「ここで10秒カウントしたらどうなるんだろう」という思いが閃いて、閃くと同時にもう「10、9…」とカウントしている自分がいて、引き続き恐怖を感じている自分は「ちょっともうやばいやばいやばいやばい!!!」と思いながらも、数を数えるためだけに分裂したもう一方の自分は隣で粛々と秒を刻んでいて、そうするともう全体としての自分の気持ちも少しずつ固まってきて、そこからはもう「えいやっ」と飛び込みましたね。一気に。

ていうか何を書いているのだろう。さっさともう寝よう。いつまで日記を書いているんだ。明日は早い。

0:39 自室