祖父母の家

昨夜、私と父との間に未だかつてないほどはっきりとした断絶があって、私は、もうこれ以上父と同じ屋根の下で一緒に暮らしていくのは本当に不可能なのだということを完全に悟るに至った。全てが不毛だった。あまりにもクソだと思った。

漫画喫茶で一夜を過ごした後、行き場をなくした私は幼少期から高校卒業まで住んでいた祖父母の家を訪ねることにした。しばらくしていると、そこに常日頃から私の現状を心配しているらしい叔母がやって来て、叔母の仕切りで、私と祖母と祖父とを巻き込んだ大規模な家族会議が開かれた。そして、話し合いの結果、次の住処が決まるまでの間、私は祖父母の家に住むことに決まった。私は、自分がどうしたら良いのかわからない。今までの全てを断ち切りたいと思い、やってきていたはずだったのに、またここに戻ってしまった。私は自分の人生をやり直していけるのだろうか。わからない。

眠いからなのか、疲れているからなのか、数日前にショックな出来事があったからなのか、それとも父と断交したからなのか、夕方、気分が沈んで、もうどうしようもないような気持ちになっていた。久しぶりに祖母と祖父と私で夕食を食べた。高校生の頃、父が仕事でいないときなどはこのメンツでよくテーブルを囲んだものだったが、今、こうして三人でご飯を食べるのはもう5、6年ぶりのことだった。祖母が作った天ぷらを食べながら、私はなぜか涙が滲んできて、思わず弱音を吐いた。どうしてなのかわからないけれど、私には自分で働いて自分で金を稼いで自分で生活していくことが、どうしても困難なことのように思える、と。祖母とはいろいろな話をした。久しぶりの祖母は昔と変わらないお茶目な祖母だった。

祖父は、私が今朝話したときには目も合わせず「24にもなって働かないなんて…」から始まる一連の至極もっともな正論を父と同じように浴びせかけてきて、それが自分にはまたとても辛かったのだけれど、最終的には「居るだけだったらいつまで居てもよいだろう」と言ってもらえた。認知症や加齢が進んでいるということもあろうか、以前よりもずっと自信がなさそうで、表情も柔和になっているような気がする。昔だったら考えられないことだ。想像の祖父は怪物のようだったが、現実の祖父となら和やかな話ができた。祖父と笑い合える日が来るとは思わなかった。

〈更新中〉

空虚さ

私は、自分の内側に渦巻いているどろどろした感情をとにかくどこかに吐き出さなければやっていられないときがある。ふと気付いてしまったことや、気になってしまったこと、目に付いてしまったこと。少しでも違和感を感じたら、私はそれを言葉にしないではいられない。考えることが好き、というような悠長な話ではなく、それを言葉にしなければ、崩れかかっている自分を自分の力で修復し、支えることができないのだ。

本来であれば、私がここに書いているようなことは、自分の内側に閉じ込めたままにして漏らさず、一人で消化して何事もなかったかのように済ますべきものなのかもしれない。そうでなくても、個人的に信頼できる友人や恋人などに話を聞いてもらったり、日記やメモ帳などにひっそりとしたためたりして、少なくとも不特定多数の人の目に触れるようなところには、思っていることをそのままぶちまけるべきでないのかもしれない。しかし、私にはそれができない。たとえ、この人は常識がなくて危険な人かもしれないとか、屁理屈ばかり並べ立てて全く憐れな人だと思われたとしても、私には自分の思っていることを、なるべく誤魔化さずに言葉にしたいという衝動がある。そしてそれはブログだけでなく対面であっても変わらない。

思っていることを言わないで、どうして他人と関係が築けるのだろうか。私はもう表面的なノリだけを合わせる会話や、当たり障りのない話題ばかりでいつまでも核心に触れないやりとりに、心底うんざりしているのだ。相手を傷付けないように注意深く気を遣いながら、時々、ガス抜きをするようにそこにいない誰かの陰口を叩いて、互いが同類であることを確かめ合う。そんなことをして何になるんだろうか。一人でいられない寂しさは、物理的に同じ空間を共有したからといって、必ずしも慰められるものではないはずだ。少なくとも、今までだってずっとそうだったじゃないか。同級生と話をしても、恋人と話をしても、家族と話をしても。

いつしか私は、相手が共感してくれるかどうかに関わらず、とにかく自分の心の中にあることだけを言葉にしたいと思うようになった。そうすることができるようになりたいと思った。それは、そうしなければ、生きていくということの空虚さに耐えられなかったからかもしれない。どうして勉強しなければならないのか。どうして働かなければならないのか。みんながそうしているから、とか、そうしないと世の中から置いてけぼりにされるから、とか、社会に適応することばかり考えて、誰もが子どもの頃には当然湧き上がってきていたはずの疑問を誤魔化してしまうくらいなら、なんとか自分なりに言葉にして、生きているということを納得したいと思った。疑問に思うことさえ許されないなんて、そんなの寂しすぎると思った。

私は他人と議論することが好きだ。私から見えている世界があまりにも空虚だから、他の人からは世界がどのように見えているのかを知りたいという気持ちがあるのだと思う。口喧嘩をすることもそれほど嫌いではない。苦笑いや愛想笑いをしている内にぼんやりと時間が過ぎてしまうくらいなら、今までの人生で培ってきた世界観を互いに破壊し合うような、そんな劇的な場面を心のどこかで求めている。私は、自分というフィルターを通して見ることのできる世界が、多くの場合それほど幸福なものには感じられないから、それを破壊してくれるような誰かや何かを知らず知らずに求めてしまうのだ。それはあまり良いことではないのかもしれない。

私は、本当は、楽しいという気持ちが分からないのかもしれない。ある人に、私は楽しい人と一緒にいたいと言われたことがあったけれど、私にはその言葉が信じられなかった。楽しいという気持ちはそれほど確固たるものなのだろうか。相手が本当は何を考えているのかという疑念や、私の人生の選択はこれで間違っていなかったのだろうかという不安を、何もなかったかのように消し飛ばしてしまえるほど激しい感情なのだろうか。私も私で異常だと思う。本当なら、何も考えずに生きていければそれが一番いい。でも私はどうしても考えてしまう。現実の空虚さに耐えられず、それを抽象的な何かで補おうとしてしまうから、だから私にはもうそうやって生きていくしか道はない。少なくとも今の私には、目の前の現実が全てであるかのように生きていくことはできない。

近況

2月になってから、「運転の練習」という名目で、車で父とよく出掛けるようになった。免許を取得した三年ほど前からペーパードライバーで、かつ、当初から運転すること自体に恐怖心が強かったので、練習しなければとてもまともに運転できそうになかったのだ。付き添いとして父が助手席に乗る。四日目になる一昨日はついに交通量の多い新潟市内まで出掛けることができた。初日は地元の商店街を通るだけでも一苦労だったから、確実に成長を感じる。

同居している父と、一ヶ月に一度は必ず口論になる。先月末も「本気でちゃんとしろ」と怒鳴られたが、私も私で相変わらずそれをことごとく理屈で打ち返して、最終的には「今年4月には完全に経済的に自立する」ということに合意した。今年四月以降、父は私への仕送りを完全に断つと約束したので、いよいよ私は食いっぱぐれることになると思いきや、なんだかんだ家にはいさせてもらえるし、飯は食わせてもらえるし、というところでどうなることかわからない。口論の最中、父はヒートアップしているので、「どうしてこんな風になってしまったのか」だの「お前が心配で心配で仕方がない」だの「理屈っぽい口調が気に食わない」だの、怒りに任せて散々なことを浴びせかけてくるのだけれど、一段落すると穏やかになって、(私が食べたいと頼んだわけでもないのに)料理を作ってくれたり(私が欲しいと頼んだわけでもないのに)車を買い与えようとしてくれたりする。たぶん私たちはもう同じ空間を共有してはいけないのだろう。私も変わらなければ、父も変わらない。うまくいかないものだ。

と、そんなことは私も最初からわかっていた訳で、私だっていい加減そろそろお金を貯めて家を出なければと思っていたのだけれど、12月1月とまた何もせずにのんびり過ごしてしまった。前半はもがいていたけれど、後半は完全に惰性だった。日記を書くヒマがないほどのんびりしていた。地元にいると、車がなければ働けず、働けなければ金がなく、金がなければ車が買えない、というジレンマを引き受けなければならないので非常にツラいものがある。最寄り駅までも遠いため、働くには家から徒歩で通える距離でバイトを探すか(ほとんどないけど)、リゾートバイトなりで住み込みで働くしか方法がない。近所で働くのは、知り合いに出くわすと激しく気まずいので気が進まない。じゃあリゾートバイトかなあと何日かサイトを検索していたものの応募要項のテンションが全般的に高すぎて自信を喪失した。そんなときはまず生きる自信を取り戻そうと、絵を描いたりしながら自己肯定感を自家培養していたのだけど、そんなことをしている内に時間が過ぎた。そんな感じの1月だった。

運転の練習をしながらだと、父ともそれなりに和やかな話ができる。2月に入って、だんだん父とも普通に話ができるようになってきた。今のところだが。父の話によると、近頃、祖父の様子があまり良くないらしい。表情はげっそりと暗く、口を開けば「いっそ死んでしまいたい」とつぶやく有り様だと言う。それを聞いて私は、そうか、と思った。そうは言っても祖父は最初からずっとヘンだったではないか。そういう話は正直もう聞きたくないなと思った。だいたい部屋の中に閉じこもり、他人と話をすることもなく、テレビを見るか酒を呑むかしか楽しみのない日々を送っていれば誰でも死にたくなるだろう。しかし私含め家族の中の誰も本気で祖父に対して優しい言葉をかける気のある人はいない。祖父はずっと他人と穏やかに心を通わすことが全くと言っていいほどできない人間だった。いつキレるかわからないので、祖父がリビングにいるだけで誰も落ち着いて飯を食べることさえできないほどだった。そして家族もまたそんな祖父を邪険に扱ってきた。明らかに不健全な状況がずっと保存されてきた。18まで同居していたから私にだってそれなりに分かる。祖父と祖母と父と、もう何十年もこじれ続けてきた問題を今さら家庭内だけで処理するなんて不可能に決まっている。本質的な解決ができないならこのままソフトランディングさせるしかない。私と父との間には昔から葛藤があって、それは今でもまだ続いているけれど、それよりも長くて深い葛藤が父と祖父との間にはあり続けてきた。しかしそれは私には何の関係もない。みんな病んでいるなあ、と思った。私がなんとかしなければと思っていた時期もあったけれど、私にできることは何もない。ただ自分で自分の精神を健やかに保つのみだ。そもそも私だって問題だらけなのだから。

そんな折、いつもよくしてくれているK編集者からのお誘いで「とある村に住まないか」との打診があった。新潟市の外れにある自然豊かな小さな村の、家賃2万円の一軒家。近くには温泉もあって、バイトしようと思えば求人はあると言う。どうなるかわからないけれど、面白そうな話だった。ちょうど家を出ることを考えていた時期だったから尚更だ。現在進行形でかなり前向きに検討している。ただ自分でもこんなに大きな決断をしたことがないので、大家さんの電話番号は教えてもらったのだけれど、まだ電話をかけられずにいる。超いいですねと言っておきながら煮え切らない態度でK編集者にはとても申し訳ない。自分でしっくりくるまでにもうちょっとだけ待っていただきたい。もうちょっとだけ。

私が何を迷っているのかと言うと、あまりにもどうなるかわからなすぎるという点である。まず、私はその村のことをよく知らない。今回のことがあるまではなんの縁もなかった。たしかに何度か行ったことはあるし、知り合いも住んでいるし、自然がとても豊かで素晴らしいと思うし、K編集者が主催する活動も週一で開かれるのでK編集者ないしその活動に参加されている方々とも週一で会えるから寂しくないし、家は一人で住むには十分なほど広い、けれど、どうして私がそこに住むのか、その必然性が自分でもよくわからない。どのツラ下げて「よろしくお願いします」と挨拶回りすればいいのかわからない。「なんで来たの?」と言われたときに「なんで来たんでしょうねえ、自分でもよくわからないんですけど」と説明するしかない。バイトしに行くわけではないしなあ。

しかしよく考えてみれば、人生のあらゆる選択において「絶対的な必然性」なんてものは存在しないのかもしれない。常に状況はあやふやで、動いている。選択肢はいつまでも手元にあり続けるわけではないし、何も選択しないということも結局一つの選択にしかならない。0か100で割り切れることなんてどこにもなくて、いつも曖昧に揺れ動いていく可能性の中から、そのどれか一つに賭けて、不連続に飛躍するしかない。どうせ放っておいたってクソみたいなまま変わらない人生を、いつまでも大事にしておくことに何の意味があるんだろう。自分に最適な選択肢がなければ、自分で作るしかないじゃないか。そうだ。そうやって無難な方に選択を先送りしたところで今まで一度だって後悔しなかったことはなかったじゃないか。昨晩だって、三年間片想いし続けたけれど結局最後まで告白できなかった中学生の頃の英語先生がまた夢に出て来て「これでやっと告白できる!実は俺先生のこと好きでした!」と夢の中で感動しながら告白したけれど、目が覚めて絶望したじゃないか。誰のせいにもせず全て自分の責任で一つの選択肢に身を投じるような思い切った決断ができないようでは、俺の人生なにも変わらない。それでいいのか。

と、色々追い込んでみるけれど、追い込んでも奮い立たないのが自分だ。それが自分だったではないか。もっと気楽に考えよう。

そういえば、私には自分の家を持ったらやってみたいことがあった。もちろんお誘いをもらったK編集者ともお話させてもらっている限りでは近いものを共有していると思うが、私には会社や学校以外で安定的に何の利害関係もなく自由に人が集まることのできるコミュニティを作りたいと思っていた時期があった。しかしそういっておきながらコミュニティという言葉に対して幾つかの点で個人に解せないところがあるので、もうちょっと言い方を変えるべきだと思うけれど良い言葉が見つからないので困った。結局、人柄に惹かれて人は集まってくるわけだし、そもそも好きな人同士で集まったところでそれ以上に深い関係は生まれないだろうし、そもそも人と人との関係は一対一が基本だろうし、コミュニティってなんなんなのかよくわからない。まあいいや。久しぶりに書き続けていたらもう朝の6時だけど、眠いのでもうそろそろやめたい。

【追記】 

眠すぎて文章が乱れた。あとで見返したら気持ち悪かったので最後の箇所をばっさり消したのだけれど、K編集者がつぶやいてくれていて焦る。これは書き直さねばなるまい。

ある日、K編集者とこんな話をした。世の中には、ざっくり言うと「がんばらないと承認されない場所」「がんばらなくても承認される場所」の大きく分けて二つがある。具体的には、前者が会社や学校であるとすれば、後者が家庭や友人・恋人関係になるだろうか。がんばったことの成果を認めてもらいたいという欲求は誰にでもあるけれど、がんばらなければ認めてもらえない場しかなかったら、がんばりたいという気持ちはおろか、生きたいという気すら起きなくなるだろう。人はたぶん、「がんばらなくても承認してくれる場所」があるから、「がんばらなければ承認されない場所」で、がんばることができる。そして、そもそも何のためにがんばるのかと言えば、それはがんばらなくても承認してくれた人たちに対して、自分のがんばれる範囲でがんばった成果を還元していきたいと思うからなのではないか。人は、ただがんばるだけでは、おそらく耐えられない。そういうような話だった。

 

 

自分で自分の病を治す

何かを楽しいと感じるということは、必ずしも何か美味しい料理を食べるとか、素晴らしい映画を観るとか、美しい景色を眺めるだとか、心地よい音楽に身を委ねるということではない。まず自分自身の心が目の前のものを素直に楽しめる状態になっていなければ、たとえ料理がどんなに美味しくても、たとえ映画がどんなに素晴らしくても、たとえ景色がどんなに美しくても、たとえ音楽がどんなに心地良くても、何の感動ももたらさないことは往々にしてある。目の前にあるものが客観的にいくら「素晴らしい」とされていたとしても、それが私にとって何なのか、主観的にどう感じられたのか、というのは別の話だ。自分を楽しませてくれる何かを探す前に、まずは自分自身が何かを楽しいと思える状態になっていなければならない。

では、目の前のものを素直に楽しめる状態とはどういうものだろう。それは、子供の頃のことを思い出せば、なんとなくわかるような気がする。子供の頃、私はエンピツとコピー用紙があれば、いつまでも絵を描いて遊ぶことができていた。上手いか下手かなんて気にしない。ただ描いていた。輪ゴムやセロハンテープや粘土や木の枝などを使って自分なりの遊び道具を発明することだってできた。しかし、当たり前だけど、歳を追うごとにそんなことはしなくなる。年齢に応じて「遊ぶ」という言葉の意味するものは変わっていき、高校生くらいになればもう「カラオケに行く」とか「買い物に出掛ける」くらいの意味に擦り替わっていた。いつしか決められたやり方で他の人と同じように「遊ぶ」のでなければ、「遊び」とは言えないと思うようになった。ただ、その頃にはもう熱中できるほどの面白さは感じられなくなる。さらに大学生になると「飲み会」や「イベント」など周囲で「遊び」とされているものがあまりにも自分の感性とかけ離れていたため、自分の中で「遊ぶ」という言葉の意味が完全に理解できなくなった。やはり本当の意味で「遊ぶ」とは、子供の頃のように周囲の視線を気にすることなく遊ぶということなのではないかと思う。客観的に見ればただ無意味なだけの行為に純粋に没入することができていたのは、おそらく幼少期の頃だけだったと思う。

私はとっくに二十歳を過ぎているから、社会的には当然もう子供とは言えない立場にある。しかし、どういうわけか最近ことあるごとに、私は未だに自分で自分のことを子どもだと思っている、ということをよく感じる。そしてそのことは、目の前にあるものを楽しんだり、他人と友好的な関係を築いたりする上でとても良い作用を及ぼしている気がする。少なくとも、そう思えるようになってからの方が以前よりいくらかマシな人生になってきている気がする。

去年の一月くらいから、ふとしたときによく自分が子どもだった頃の記憶を思い出すようになった。最近は、あまりにもよく思い出すから、思い出している状態の方が自然になって、あたかも自分が子どもの頃の自分に戻ってしまったかのような感覚に陥るときさえある。例えば、今まさにそうなのだが、私は寒くなるとよくリビングの床にうずくまってストーブに尻をあぶりながら暖を取るのだけれど、子どもだった頃の私も、そういえばまさに同じような格好で暖を取っていたことを思い出す。ふと思い出した記憶が目の前の景色に重なると、大人になった私がもう一度それをやり直しているような感覚に包まれる。冬になると、私はよくストーブの前に敷かれた半畳ほどの小さな絨毯の上にうずくまりながら、その絨毯の幾何学的な模様を迷路に見立てて、指を這わせて遊んでいた。学校から帰宅して、夕食がテーブルに並ぶまでのなんてことのない時間。ランドセルに乗った雪を石油ストーブの上に落とすと、ジュワッという音を立てて一瞬で蒸発していくのを見るのが好きだった。お腹が減って夕食が待ち切れないと、祖母にオカズノリをもらって食べていた。ふとしたときに、現在の自分に呼応して過去の記憶が呼び起こされる。そういうことが、最近増えてきた気がする。

そういう、自分で自分が子どもの頃に戻っているかのような感覚になっているとき、私は目の前にあるものを比較的素直に楽しめているような気がする。楽しむと言うより、自分の意識を自分以外のところに向けることができている、と言った方が感覚的に近いかもしれない。早く経済的に自立しなくては、とか、どんな仕事が自分に向いているんだろう、とか、他人からこんな風に見られたい、とか、どういう自分でありたい、とか、自分と世の中との間にどう折り合いを付けていくかということをひたすら悩み続けているようなときとは、全く違う状態になることができる。ただし、当たり前だけどずっとそうしていられる訳ではない。自分で自分のことを考えている内にひたすらモヤモヤが募っていくような、そんな冴えない時間も、相変わらず、一日の内のかなりを占める。

 

自分以外のことに意識を注ぐことができれば、自分について考えて悩むことはない。ある小説家が、小説とは薬のようなもので、自分で自分を治療するために、自分が罹っている病に効く薬を作っている、という話をしていたことがあったけれど、何かに意識を注ぐということはつまりそういうことなのかもしれない。子どもの頃のことに想いを馳せると、上手く言葉にして反論できなかっただけで、必ずしも腑に落ちないまま仕方なく受け入れなければならなかったことがいくつもあったことに気付く。そういうものを大人になってから改めて語り直すことができたとき、私は子どもの頃の自分にまた一つ近付けたような気になる。目の前のものを素直に楽しむためには、まずは自分が罹っている病を自分で治さなければならない。

1月6日(金)

コンピューターと人間|稲村彰人|note

微妙な均衡点|稲村彰人|note

とくにSNS上でシェアしているわけでもないのにいつも私のブログをわざわざ読みに来てもらっている皆さんには無断で、これからnoteでも文章を書いてみようと思う。といってもとくに中身に違いはないのだけれど、noteで書くときは一回ずつ特定のテーマに沿って、ある程度まとまった形で文章を書いていくようにしたい。天パ日記は、全公開しているけれどあくまでも「個人的な日記」と自分なりに割り切ることで、今まであまりにも好き勝手に書き過ぎてきた気がする。でも、これからはもう少し他の人にちゃんと読んでもらえる文章も書けるようになりたい。あと、ツイッターに絵を載せるようになったことについてお前は調子に乗ってるぞと思う方も中にはいるかもしれないけれど、その件に関しても自分で色々と試行錯誤している段階なので、大目に見てほしい。「どうだ書いたぞ」という雰囲気にだけはならないようにしたい。でももしかしたらそう見えるかもしれないから、だとしたらもっと改良を加えなければならない。

と、うだうだ書いているけれど、そこまで私のことを気にしている人なんていないということくらい、自分でもわかっているつもりだ。でもこれは引っ込み思案なりのおまじないみたいなもので、エクスキューズがないと体裁を保てないところが自分にはまだまだある。

今年は自分から出していく年にしたい。出すということを意識的に行っていく年にしたい。いいねの数をものすごく気にしながら、他者からの評価を厳粛に受け止めながら、自分で信じられる何かを他者に向かって投げ込んでいける年にしたい。書いた文章を「勝手に読んでください、つまらなくても自分から読みに来たんだから文句を言わないで下さい」と言いながら待つというスタンスで、身を守ってばかりいられない。全世界が灰色に見えていた頃の自分に申し訳が立たないようなことはしたくないと思いながら、自分から世界に対して「おれという人間がいるので良かったらおもしろがってください」と、たとえそんなことぜんぜん思っていなくても自分を奮い立たせながら、自分なりに身構えて立ち向かっていけるようになりたい。天パ日記は私にとってホームだけど、noteとツイッターは私にとってアウェーだ。他者の視線に八つ裂きにされながら、社会的な自己を自らの手で作りあげていく場所だ。熱い溶岩が冷たい水に当たって固まるように、自分の中でグツグツと煮立たせるばかりでなく、冷たい水に自らぶつかっていけるようになりたい。

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1月4日(木)

新しい年が始まった。12月は完全に冬眠していたけれど、1月の私は何か動きがあるのだろうか。自分は放っておくと「おれは何がしたいんだろう」「これからどうやって生きていくんだろう」みたいなことばかり考えてしまうみたいだから、寒くてもなるべく外に出るとか、考えるならせめてブログに書いて公開するとかして、内に閉じこもりがちな自分の精神をなるべく外へ開放させるようにしたい。わざわざ他人と会うのは億劫でも、誰かに一方的に自分の話を聞いてもらいたくなったようなときに、こうやって気軽に書いた文章を公開できる場所があるのはとても良いことだなあ、と書きながら改めて思う。今年もまたほそぼそと書き続けていきたい。

大晦日からずっと風邪を引いていたのだけど、今日は少し回復してきて、軽く外にでも出掛けようかという気分になってきた。3時頃、自転車に乗って郊外のショッピングモールに向かい、音楽を聴きながら適当に店を回ったりした後、フードコートでうどんを食べた。祖母からなんだかんだお年玉をもらってしまっていたので、なんとなく少し乱暴にお金を使いたくなって、意味もなくノートを数冊買った。このノートをどうやって使うのがいいだろう。新学期になる度に新しいノートを買っていた学生の頃とは違い、今の私にはもう覚えなければならないことも、計算しなければならないこともない。

しなければならないことを自分で見つけるのはむずかしい。今の私は、何かをしなければならないと思うことからほとんど完全に解放され切った毎日を過ごしているけれど、この状態がはたして私にとってほんとうに幸せなのかどうかはわからない。よく「やりたいことだけをやって生きる」ということがとても素晴らしいことのように言われることがある。私自身、そういう風に思うところもないわけではないのだけれど、自分の行動や選択に関する何もかもの原因をすべて自分の「やりたい」という気持ちだけに帰着させるのは、逆に、あまりにもしんどすぎるのではないかと思うときもある。私は買い物をしたいからショッピングモールに行ったのだろうか。うどんを食べたいから、うどんを食べたのだろうか。たしかにそういう面もあるけれど、それだけかと言われれば必ずしもそう言い切れない。

何かの行動を起こしたり、何かの態度を表明したりするよりも前に、私の中にはまず色んなことに対して「本当はどうだっていい」と思っている自分がいる。私にはどうも、何かをやりたいと思う気持ちより、このどうでもいいと思っている気持ちの方が確かな感じがする。何もやりたくないというのとも違う。上手く言えている気がしないのだけれど、やりたいともやりたくないとも言い切れないことの方がもっとたくさんあるのではないかとなんとなく思う。

帰り道に本屋に寄った。そこで立ち読みした社会学者・岸政彦さんの『断片的なものの社会学』がすばらしかった。さすがツイッターで話題になっているだけのことはあった。題名に社会学と名が付いているけれど、エッセイのように読みやすくて、ありがちな結論めいたものを避けているように見えたのもまた良かった。まだ少しだけしか読んでいないので、明日また立ち読みしに行こうと思う。

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12月30日(水)

また夜になった。時刻は1時31分。いや今、32分になった。日付けは12月31日。寝て起きたら大晦日になる。例によって、ふとまた子どもの頃のことを思い出しているのだけど、あの頃はこんなに遅くまで起きていることができたのは大晦日の夜だけだった。20歳からもう3年も年を重ねてしまえば、何もない日でも深夜1時過ぎまで起きているのなんて当たり前になった。丑三つ時が怖くなくなったのはいつからなのだろう。一人で寝るのが平気になったのは、大晦日や正月が待ち遠しくなくなったのはいつからなのだろう。当時の私が、明日がなにか特別な日であるような気になっていられたのはどうしてだったのだろう。あの頃と何も変わらない世界を生きているはずなのに、いつからか世界を驚きや不思議に満ちた場所として感じられなくなってしまった。そして、そうなってから途方もないほど長い時間が過ぎてしまったように思う。

大人になってからほとんど気にしなくなったけれど、照明を落とした部屋の暗がりをじっと見つめていると、視界にチカチカと光る細かい粒みたいなものが見えてくるということがある。一見黒色で塗り潰されているようにしか見えない暗闇に、よく目を凝らすと白っぽい光の点が無数に漂っている。おそらく眼球の中の何かが見えているのだろう。しかし、子どもの頃の私はこれが不思議でならなかった。目を瞑っていてもそうだ。何も見えない、つまり真っ暗にしか見えないはずなのに、しばらくしていると暗がりの中に散らばるように数え切れないほど多くの小さな光の粒が浮かんできて、点滅しながらゆっくり輪を描いて流れている。そこからさらに時間が経つと、背景から黒い渦みたいな模様が滲み出るように現れてきて、無数の粒と混ざり合いながら、視界全体に単に真っ黒とは言い切れない複雑で豊かな景色を映し出す。眠れずに目を閉じているとそれに寝付けない不安が重なって、心細くなった私は思わず隣で寝ている父の布団に滑り込んでしまうのだった。

私が今見えているものは他の誰の目にも同じように見えるものなのだろうか。誰かに確認しようにも伝える言葉を持たなかったあの頃の私は、目の前に広がる不思議な景色をただ感じることしかできなくて、気が付けばまた何事もなく朝になっていた。目を瞑って布団に横たわるというたったそれだけのことが、あの頃にはとても濃密な経験として感じられていた。あの輝きはいつ失われたのだろう。そこには姉がいて、祖母がいて、父がいて、祖父がいて、私はその中の一人として世界のさまざまな事柄に対する捉え方を把握しながら、同時にその取り憑かれるような不思議さを急速に失っていったのだった。

 

時刻は2時36分。父が私の部屋の前の廊下を通る音が聞こえる。ドアの開く音。小便が便器に落ちる音。便器に水が流れる音。水が管を通っていく音。父が軽く咳をする音。この真っ暗な部屋の中にスマートフォンの画面だけが眩しく光っていて、画面を打つこの両手の親指とパーカーの袖をわずかに照らし出している。画面の光に照らされて私の顔もぼんやりとこの暗闇に浮かび上がっているだろう。しかし私はそれを見ることができない。自分の顔を自分で見ることができないという事実がとても不思議なことのように思えるときがある。他人の顔はよく見えるのに自分の顔は鏡を通してしか見ることができない。そして今見ることができるのはこの指とパーカーの袖と、そして画面だけだ。ときどきまぶたを閉じて眼球を休ませながら、書いた文字の先にまた文字を繋げていく。

いま私は頭の中で考えた言葉を打ち込んでいるのだろうか。それとも文字を打ち込みながら考えているのだろうか。そもそも何かを考えているのだろうか。考えているのだとしたらそれはなんなのだろうか。

考えていることと身体を動かすことの間には絶対的な隔たりがある。今こうして文章を書いている間にも、私は不断に私の親指を動かし続けているけれど、「この続きにどんなことを書こうか」と考えることはあっても「次は右の親指をこういう風に動かそう」などと考えることはない。私は何かを考えながら、全く別の仕組みで自分の指を動かし続けている。これは一体どういうことなのだろう。考えてみれば不思議な話だ。しかしそれも、考えてみれば、の話でしかない。あの頃のように切実に世界の不思議さを感じるわけではない。

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