#3

さきほど、あてどもなく道を歩いていたら、路上にツバを吐きつける三十代半ばくらいのスーツ姿の男性とばっちり目が合ってしまった。私はすぐに目を逸らしてそのまま等速で歩き続けたのだけれど、後ろの方から「おい」という、明らかに私に絡んで来ようとしているその男性の声が聞こえる。なおも無視して、半分無意識にあくびをしたりしながら歩き続けると、すかさず左斜め後方から「ああ、何も緊張してねえよってなあくびかよ、おい」という声がする。そのとき、私の頭は三つの自分に割れていた。「緊張」ってこういう時に使う言葉でもあるんだなあと思う自分。自分は全然びびってないと思っている自分。そうは言いながら、後ろを振り向くのがかなり怖い自分。次第に苛立ちを帯びた声が、左後ろから徐々に私に追い上げてくる。事態に巻き込まれてから一貫して正面を向き続けている私の視界にも、端っこの方にその男の姿がもう一度見えそうになっている。私は「めんどくせえな」という気持ちと「怖い」という気持ちと「めんどくせえな」とだけ思えたら格好良いのになあ、おれ、という気持ちが綯交ぜになって、スピードを保ちながら瞬時に右へ直角に方向転換した。怒気を含んだ声は、また私に向かって何かを言っている。私はそのまま来た道を折り返して歩いた。つけられているのではないかと怖がりつつも、そのまま真っ直ぐに歩き続けた。

 

私には、すれ違う人の目を無意識に見てしまうというあまり良くない癖があり、そのために知らない人とすれ違い様に目が合ってしまうことがよくある。しかし、今回のようにあからさまに絡まれたことは今までになかった。と、書いてから思ったのだが、そういえば今までにもちょくちょく絡まれたことがあったような気もする。ああそういえば、まあまあというか結構あった気がするなあ。高校の頃、なんとなくほっぺたを膨らませながら廊下を歩いていたら、髪を逆立てたラグビー部の強そうな生徒に「見たかあの顔、びゃっひゃっひゃ」という具合に嗤われたり、中学の頃、不良ぶるのを格好良いと勘違いした同級生にすれ違い様にパンチを食らわされて「びびっただろう、ひっひっひ」と挑発されたり、みんなで浜辺で焚き火をしていたらなぜか私だけが海を愛するおじさんに説教されたり。そう言えば、しばしば舐められがちな人生を送ってきたような気もする。どうしてなんだろうか。やはり見た目の問題だろうか。もう少し強そう服装に変えればいいのだろうか。強そうな服装ってなんだろう。

男の私でさえこんなに怖かったのだから、女の人が強そうな男に絡まれたりしたら、さぞ怖かろう。いやー怖かった。

#2

二日前にも利用した宿の安さを気に入り、今晩もまた同じ宿に泊まりに来ていた。が、隣で寝ている客のイビキがでかすぎて、ろくに寝られやしない。なんなんだろうまじで。スマホを見ると、時刻は7時11分。たしか昨夜は深夜3時ぐらいまで寝付けなかったから、今日はせいぜい4時間くらい眠れていない。自信を持って断言できることはそれほど多くないけれど、私は、いびきだけは本当に嫌いみたいだった。そういえば、父もよくいびきをかく男だった。六畳一間に親子三人が川の字になって寝ていた子どもの頃、父のいびきがあまりにうるさくて、隣で寝ている父の背中を蹴ったり物を投げたり布団を引っ張ったりしていびきを止めようと、なんとか足掻いていたことがあった。他人のいびきだけは本当に昔から悩まされることが多かった。

 

結局眠れず、そのまま朝を迎えた。隣りのコインランドリーで洗濯をする。時間を潰すために外をぷらぷらと歩く。

歩きながら、タモリ倶楽部はどうしてあんなに良い雰囲気なのだろう、というようなことをぼんやり考えていた。自分が好きなものを本気で語ろうと思えば、人はある意味、変態的にならざるを得ない。変態、とまでは言わないにしても、自分自身のどうしようもない変えがたさについて何度も何度も悩んだり開き直ったりを繰り返している内に、ある種、善悪を超越した「どうしようもない人間臭さ」みたいなものに深まっていくことはあるのではないか。話す人を間違えればドン引きされてしまっても仕方がないような自分自身のある部分。それを口に出しても否定されない空間があることへの安心感。その安心感が、あの独特のゆるい笑いを作り出しているのではないか。そんなようなことを考えながら歩いていた。

コインランドリーへ戻ると、私が利用しているものの隣りの洗濯機を覗き込んでいる一人の男性が話しかけてきた。「子ども用の緑色の靴下が片方見つからず、あなたの洗濯機に間違って入ってはいないか」とのことだった。私はちょうど回転が止まった洗濯機を開けて中を調べた。が、靴下は見つからなかった。しかし、それから「大切な靴下なんですねえ」みたいなことを話しているうちになぜか男性と軽く打ち解けて、しばらく和やかに立ち話をした。話の流れで私が軽く素性を明かすと「おれも二十五才くらいのとき、どうしても仕事が嫌になって、一年くらいあちこち旅行してた時期があったもーん」と、男性は話した。私は、自分があまりにも平常心で知らない人と話していることに、不思議と冷静だった。そういえば、こんな風に知らない人といきなり打ち解けて話すことは昔からよくあった。他人と気さくに話をしているこの瞬間が、私は好きだと思った。この自分を忘れないようにしたいと思った。男性は「また」と言ってコインランドリーを出ていった。去り際に「もしもどこかで会えたら」なんて軽く笑って挨拶をしたけど、きっと彼とはもう会えないだろう。それでよかった。

それからまたしばらく辺りを歩いた。WiFiを使うためにマックか喫茶店にでも入ろうかと思ったが、どうも昨晩から胃が悪く、ポテトの匂いが充満するマクドナルドには到底入れそうになかったし、喫茶店でコーヒー一杯でさえ口にするのは難しそうだった。私はベンチを求めて公園に向かった。

公園には、ケラケラと笑いながらはしゃぎ回る園児と、その子を追いかける若い母親の姿があった。辺りを見渡すと、その様子を異様なほど喜ばしそうな顔で眺めている一人の好々爺が座っている。その顔が、どこか達観しているかのような、とろんとした、恍惚とした表情をしていて、目の前を横切るときに思わず私は会釈せざるを得ないような圧力を感じた。その和やかな雰囲気から、彼とも軽く立ち話ができそうな気がしたけれど、なんとなくそうしがたい呑み込まれそうな怖さがあって、私は目が合う前に視線を逸らした。

ベンチに腰掛けると、少し離れた先には、他人の視線など全く気にしないような素振りで大胆にベンチに寝転んで漫画に噛り付いている30代くらいの女性が、さらに向こうには、昼間からビールを飲んでぼうっと宙を見つめる男性、弁当を食っているスーツ姿の男性、事務員風の女性が座っていた。それぞれが思うままにベンチに座り、昼下がりのひと時を過ごしていた。

#1

面倒くさいからいつも下書きなしでブログを公開するのだけれども、そのせいで一行一行に対する《「あの人がもしこれを見たらどう思うかな?」チェック》が甘くなってしまいがちだ。「あの人はこう思うだろうけど、でもあの人は…」みたいなことを繰り返していくうちに全てが嫌になって公開した文章を取り消したくなるのがいつもの癖で、昨日書いた文章も一旦は取り消したのだけど、それでは何も変わらないから仕方がないので、とりあえず中途半端なまま公開することにした。日々、完全におめかしし切った格好で他人の前に自分の姿を現していないように、文章もまた完全な姿にこだわって推敲し続けていたら、いつまで経っても公開することができない。いや私の場合、他人に自分の文章を読んでほしいという気持ちもそれほどないから、公開しなくたって別に構わないのだけれど、「誰かに読まれている…」というプレッシャーがなければ、わざわざ文章を書こうという気にならないのもまた事実。文章は書きたいのだ。書きたいというか出したい。という訳で、最後に(更新中)と記すという邪道をいつものように使いながら、あくまでも暫定的な自分自身の思考の流れをここに書き留める。文章という形態である以上、どうしたって後にも残ってしまうけれど、しかし、あくまでそれも暫定なのだ。情報は受け取った分だけどこかで外に出さないと自分の中にひたすら沈殿し続けて頭がおかしくなってくる。つねに最新の自分が、過去の自分を否定し続けるような書き方がしたい。私の頭の中もだいたいいつもそんな感じだから。

(更新中)

 

目が覚めた。時刻は9時10分。頭がくらくらするのは収まったが、まだ布団に寝転んでいるからなのか、いまいち目が冴えない。チェックアウトまであと50分。そろそろ歯を磨いて、顔を洗って、服を着替えよう。

その前に、今朝見た夢が個人的に爽快だったのでそれだけ書き留めておく。夢で、私は中学生だった。ちょうど卒業の時期で、クラスメートたちは別れの挨拶などをして涙ぐんだりしていた。そんな中、私は一人の男子生徒の前までズカズカと歩いていき、いきなり罵声を浴びせた。「お前は今まで散々おれをイジッてくれたけど、てめえは本当だったらおれをイジれるようなタマじゃねんだよ!!調子に乗りやがって!!」みたいなことを口走っていた気がする。当時、イジられることで辛うじてクラスの中に居場所を得ていた私は、ウケることによって味わう快感と、それゆえに蓄積するフラストレーションを同時に感じていた。あれから十年近く経った今、夢の中で小さくそれが爆発した。爽快感があった。これでおれはクラスの中でもう絡みにくいキャラになってしまうだろうけれども、どうせ今日で卒業なのだからそれも関係がないと思えた。というかそもそも夢だった。いい夢だった。

 

思春期の頃を思い出すと、今の自分の在り方を考える上でヒントになることが多い。本来ならいじめられてもおかしくないほど気が小さかった私が、辛うじていじめられることなくクラスの中にささやかな人間関係を作ることができたのは、学校の成績が良かったために周囲から一目置かれ、自虐することによってそれなりに他人に気安くイジってもらえるよう心掛けていたからだった。どちらかが欠けていたら、私は周囲から孤立して学校に行けなくなっていただろう。現に、大学に行けなくなった頃の私は、学業成績によって自分を優秀に見せることもできず、イジられることによって自分なりに精一杯の親しみやすさを演出することもできず、素の暗さが前面に出てどう考えても近寄りがたい人間になっていただろう。今はどうか。きっと大して変わらないんじゃないか。今までとは違う人間関係の在り方を、いい加減私は覚えなければならない。

 

ホテルのロビーでお茶を飲み、少し歩いてマックに入った。午前中から体を動かしているからか、明らかに気分が良い。

 

それから2時間ほどパソコンをいじって時間を潰した。ネットで横浜辺りに宿を予約してから、ユーチューブでひたすら音楽を聴いた。音楽を聴いていれば、いくらでも時間が潰せてしまう。

 

しばらくすると、左隣の席に子連れの夫婦が座った。奥さんの方が、子供にやたらめったら注意しているのでなんか嫌な雰囲気だなあと思ったら、席に座ると夫の方も子どもを無視して仕事の愚痴を次から次へと垂れまくって、うわあと思った。夫の愚痴に対して、奥さんが言葉を返す。それが上手く聞き取れないのか、夫がその都度「ああ?」と上がり調子で聞き返す。その「ああ?」が私の耳には非常に耳障りで、もう移動しようと思った。ちょうど右隣に座った旅行客風の男性の体臭がきつかったので、いよいよ席を立つ踏ん切りがついた。そして店を出て、私は駅へ向かった。

 

いじめられないよう必死に生きていた思春期の頃を思うと、今になって思えば、自分が多数派につくことで他人を間接的にいじめていたこともあっただろうと、苦々しい気持ちになる。今は私ももうすっかり社会的弱者になってしまったけれども、当時は自分可愛さに多数派に取り入ることで「みんなと違うから」というだけの理由で無意識に他人を傷付けていたこともあっただろう。大学に行けなくなり始めた二十才くらいの頃になっても、私は古本屋で社会から落ちこぼれた若者についての本を読んでは、「まさか自分がそうなるはずあるまい」と、他人事に思っていた。彼らと自分は違うと思っていた。内心、見下していたのだった。今もまだ私にその気持ちは残っているのだろうか。だから自分を受け入れられないのだろうか。

 

私が「ふつう」の人と出会うとき、彼らは私を「自分とは違う人」として腫れ物に触るように扱うだろう。私には、彼らがそうする理由が痛いほどよく分かる。なぜなら、私もかつてそうだったから。いや、むしろ私は今でもどこかで自分で自分を恥じているのだった。私だって、私を見下す人と一緒に私を見下せたらどんなにいいか。こうなるはずじゃなかった、という思いがある。その思いがいつまでも胸に沈んでいる。

 

思い付くまま書き進めていたら、うっかり鬱っぽい所まで足を踏み入れてしまった。文章とは裏腹に、私の気持ちは久しぶりに清々しく澄んでいる。午後は、たい焼きか何かをつまみながら街を歩きたい。

 

上野に着いた。平日だというのに人がごった返している。道端に座って深呼吸をすると気分が良かった。知らない場所で知らない人たちに囲まれているというのも久しぶりの感覚だ。

 

ここでもう一度、さっき考えていたことの続きを考えたいと思う。こうして人混みの中を歩いているだけで、私は自分自身が一瞬で他人を属性によって見分け、判断していることに気付く。性別、身なり、年齢、美醜、障害の有無、日本人かそうでないか。そうやって他人を属性で判断することと、他人を見下すこと、差別することはどこがどう違うのだろう。私が心の奥で忌避しているところの「ふつう」の人からの見下しと、今、私がこの雑踏の一人一人に対して向けている眼差しとは、どこが違うのだろう。子供を感情的に叱り飛ばす若い母親の声に心をかき乱され、小便器に痰を吐き出す老人に眉をひそめ、何かしら体に不自由のあると思しき男性と反射的に目が合わないよう瞬時に視線を逸らそうとする自分。周囲を眺めながら、冷徹な目つきで相手を捉えて、また次々に視線を移す。どう思えば『正解』なのかは知っている。しかし、それは本当に私の本心だろうか。自分が恐れているはずの他者からの眼差しを自分もまた誰かに向けている。この矛盾をどう考えればいいのだろう。

 

自己嫌悪に陥っているとき、誰かの軽口を叩くことだけが心の癒しのように思えることがある。誰かを傷付けるということが自分を救うということに役立っている。でも、それに依存するようになるとますます他人は離れていき、孤独になっていく。

今では信じられないが、そういえば二十一歳くらいのときまでずっと、私は「他人を嫌ってはいけない」と思っていたのだった。以前にもこの日記に書いたと思うが、自分から他人に向けた「嫌い」という感情は全て自己嫌悪の裏返しで、自分が認めたくないと思っている自分の側面を相手に都合よく投影しただけの同族嫌悪に過ぎない、だから他人をいくら嫌っても自分自身が本当に見つめなければならない部分からは逃げていることにしかならない、と、そのように考えていた。基本的には、今でもその考えは変わらない。けれど、そう書いていた当時の私は、ある意味で観念的だったのかもしれないとも思う。あるべき価値観の中に自分を置いて、実際の生活の中で巻き起こる自然な感情の揺らぎを細やかに感じ取ろうとすることからは避けていた。他人を嫌ってはいけないだなんて、当時の私は本心からそう思えていたのだろうか。他人との関わりをどこかで避けていたのは、今も昔も変わらない。

気が付けば、私は半年くらい前から積極的に他人への嫉妬や愚痴を口にするようになっていた。以前より極端に落ち込むことは少なくなった気がするけれど、他人との関わりで苦労を感じることは依然として多い。特定個人のために向けられた「嫌い」は放っておくと肥大化して、いつしか自分自身の全て、もしくは他者一般を嫌ってしまいそうになる。そうなったら、この世界に私の場所はなくなる。

 

また暗いことを考え始めている。けれど、心はいたって健やかだ。もうかなり休憩したからそろそろ辺りを散策しよう。

 

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しばらく歩くと、ハーモニカを演奏する路上ミュージシャンがいた。素敵な音色にふいをつかれて、思わず目に涙がにじんだ。そういえば何年か前にハーモニカを買って練習をしようとしていた時期もあったなあ。帰ったらまた始めてみようか。

 

演奏は、結局最後まで聴いてしまった。ささやかながら投げ銭をあげたら、非常に人の良さそうな笑顔で感謝された。私も「素敵でした」などと声をかける。いやあなんて豊かな午後だろう。少し歩いてはベンチに座り、穏やかな気持ちになっている。なんだかもう軽く微笑んでしまっている。良い日だ。

 

ベンチに座ってツイッターをみる。なにやら今度の総選挙は大荒れのようだ。事態は錯綜しているし、人によって色々な考え方があり得るけれど、今回は民進党希望の党に取り入ったことで中道左派の投票先がなくなってしまったとかそんなようなことらしかった。無党派層は小池新党になびくのだろうか。どうなるんだろうか。私もどうしようか。

 

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マクロなことを考え始めるとまた観念的になって良くないので、目の前に生い茂るハスにとりあえず目をやる。あまり詳しくないので、これ以上ここで口走るのはよそう。お腹が空いてきたので、そろそろ移動したい。

 

漫画で有名な、東京都北区赤羽に来た。が、今のところ変わった光景には出会っていない。地方出身の私からしてみれば、街並みもふつうに都会だなあとしか思わないのが悔しい。腹が減ったので、とりあえず真っ先に目に付いたカツ丼屋で夕食をいただくことにした。

レジにて。料金が「853円」と表示されてあったので、千円札と五十円玉、それから一円玉を三枚、台へ置いた。けれども一向にお釣りが返ってこず、店員の中国人の方もなにやらあたふたしている。どうやら研修中の人のようで、しばらくしてチーフっぽい方が出てきて、目の前でレジのやり方を教えはじめた。でも、それにしても様子がおかしい。すると、よく見ると料金の表示が「730円」になぜか変わっていた。すかさず謝罪をして「すいません、値段を勘違いしていました」と声をかける。そのとき、ようやく店員さんは私と目と合わせて、笑いかけてくれた。それまで「どんな嫌がらせをする客だろう」と思われていたに違いない。店員さんには、なぜか「こちらこそすみません、研修中なもので」と謝られてしまったけれど、これはどう考えても私が悪かった。申し訳ないことをした。けれど、しっかり謝罪することができて良かった。

特定の言動を強いられる空間は苦手だけど、こういう風にふいに知らない人と軽く言葉を交わしたりする瞬間は好きだ。人付き合いは苦手だけれど、人と話すのは嫌いじゃない。むしろ好きだ。

 

日が暮れてきて、少し気持ちも寂しくなってきた。引き続き、街を歩こう。

 

公園にベンチを見つけたので、座る。荷物が重いので一日歩いているだけで体力をかなり消耗する。今日もよく眠れそうだ。

 

久しぶりにブログを書いている。今日は書きすぎたくらいに書いている。以前は自分のリハビリ的に、思ったことを吐くようにして書いていたのだが、最近は読む人のことを意識しすぎてどのように書いたら良いか分からなくなっていた。自分をよく見せようとすると、全く手も足も出なくなる。そもそも表現するということはかっこ悪いところも含めて自分を見せることなのではないか。けれど、他人の目に触れるものである以上、客観的な評価の眼差しから逃れられない。かっこ悪い、だけではだめだ。表現として完成しているとは言えない。自分を外に向かって開くためにも、必要な努力を怠ってはいけない。

今夜の宿を目指して横浜に向かう。電車に揺られて一時間ほど、今回の選挙について様々な論者が様々なことを言っているのをツイッターで見ていた。自分の人生さえろくに生きていないくせに、こういうときに野次馬的に旬な話題に飛びつくのはみっともないような気もするけれど、人々がそれぞれの立場・利害・感情に動かされてうごめていく様を見るのは、どういうわけか割と楽しんで見てしまう。そんなことをしているうちに、目的の駅へ着いた。

 

ネットで調べていた時点である程度分かってはいたことだが、予約した宿は思った以上の繁華街にあった。宿の場所を確認するためスマホで地図を見ていると、あるお店の場所を調べてくれないか、と女性に声を掛けられた。どうやらスマホが上手く作動しないようだった。私は「いいですよ」と、ちょうど開いていた自分のスマホの地図を見せ、店の名前を聞いて入力し、それを映した私のスマホの画面を、彼女のカメラで撮影してはどうかと提案した。それがうまくいくと、彼女は軽やかに私に感謝と挨拶をして、去っていった。

一瞬の出来事だったが、さすがにこの程度のことではビビらなくなっている自分に気付くと少しだけ心が弾んだ。それから、看板にキワドイ言葉が並ぶ、やたらと派手な街並みを連ねる風俗街を通っても、道端の強そうなお兄さんにそれほどビビらなくなっている。辺りをキョロキョロ見たり、背筋を曲げて歩いたり、俯いて歩いたりしなければいい。この辺りの店に私一人で入るには、まだかなり時間がかかるだろうけれど、それなりに変わってきている自分を少し頼もしく思えた。

さっきから真下にいる人と左下辺りにいる人が何やら話をしている。最初は英語かなあと思ったけど、ところどころで「シュ」とか「ホボゥ」とか「ティヒ」とか言っているのが聞こえるから、もしかしたらフランス語とかその辺かもしれない。まあべつになんだっていい。なんだっていいんだけど、でも、結構デカい声で話しているので気にはなる。まだ寝ないから別にいいんだけど、夜もこんな感じだったら流石に困る。今夜はしっかり寝たい。今も非常に眠い。頭もくらくらする。

 

さきほど午後七時頃、東京都内某所のドミトリー式の宿に到着した。今朝10時に新潟駅南口を出発して、新宿のバスターミナルに着いたのは午後五時。それから新宿駅付近をしばらく歩き、東京に来たときはなぜかいつも立ち寄りたくなるチェーンの天丼屋を探して夕食を済ませ、ついでに宿を予約した。宿を目指して20分ほど電車に揺られた後、駅から五分ほど歩いて目的地に着いた。久しぶりの東京だ。やはり人が多い。

 

ここしばらく屋内でじっとしていることが多かったから、体力がかなり落ちている。大して歩いてないはずなのに、身体はもうぐったりだ。疲れた。今夜は早く寝よう。フランス語がいい感じに収まってきたのでもう寝てもいいかもしれない。もうものすごく眠い。

 

今回、東京に来たのは、三か月前に「自分の連絡先を公開して、呼ばれた先で無償でお手伝いをしてくる」という無謀な企画に参加していた頃に知り合った方が「またちょっとお手伝いしてくれない?」と声を掛けてくれたからだった。手伝うのは日曜とのことなので、明日は一日東京近辺を巡りながら、時間の限り物思いに耽りたいと思う。新潟に長く居すぎてしまったので、都会の雰囲気に身体を馴染ませて、自分の中の新潟成分を薄くするための時間にしたい。

 

自分でも不思議で仕方がないのだが、私は自分から動こうとするとものすごく時間が掛かって仕方がないのだけれど、今回のように誰かに誘われたり命じられたりすると割とホイホイどこへでも付いていってしまう傾向がある。よくないなあと思う。でも、もうなんか仕方がないのかもしれないなあとも思う。自分でも自分がよくわからない。おれはなんなんだろう。

 

改めて新潟の実家に長く滞在し過ぎてしまったことを思うと、ほんとうに自分に嫌気が差してくる。三か月も無駄にしてしまった。思えばそれも自分から動くきっかけを作れなかったからじゃないか。この自分と一生付き合っていかなければならないと思うと本当に気分が滅入る。とりあえず今日のところは寝よう。

 

と、思ったけれど、せっかく遠出したのに寝てばかりいるのも惜しい気がして、しばらく辺りをウロウロしていた。眠かったけれど、幸い辺りは私好みの下町っぽい雰囲気の土地で、歩いていて心地が良かった。実家にいるよりよっぽど田舎に来ている感じがするのは、東京の方がまだ人が沢山住んでいて、昔ながらの雰囲気が残っているからだろうか。地元は散歩していてもつまらない。国道沿いのニュータウン、郊外のショッピングモール、駅前のシャッター商店街。東京の方が街角にまだ田舎っぽさが残っているような気がする。それに、雑踏に紛れられる分だけいくらか孤独が薄まる気もする。

(更新中)

 

「ゲストハウス」

この間、北海道へ旅行に行ってきたのだけど、そのときに一泊だけ滞在したゲストハウスがふつうにいい感じだったので、驚いた。そのゲストハウスがいい感じだったことに驚いた、というより、そのゲストハウスをいい感じだと思えた自分に驚いた、と書いた方が近いかもしれない。これは完全に偏見なのだけど、「ゲストハウス」と聞くと、私は「社交的な人たちがラウンジとかに集まってやたらワイワイしている」というような固定観念があって、なかなか自分からは近寄りがたいというか、近付いてもちょっとソワソワするというか、決して「嫌い」ではないけれどわざわざ「好き」と言うのもなんか違うというか、ゲストハウスそれ自体は別にどうでもいいのだけど「ゲストハウス好き」を自称している人を見かけるとなんか尻込みするというか(警戒するというか軽蔑するというか嫉妬するというか)とりあえず少し複雑な気持ちになるのだが、実際に入ってみたら、ふつうにいい感じだった。ふつうにいい感じで、驚いた。

何事も、斜に構えていたら良いというものではない。というか、斜に構えているときはだいたい自分の方がダメになっていることが多い気がする。反省した。自分を戒めたい。よく考えたら、今まで入ったことのあるゲストハウスで実際にイヤな体験をしたことなんてほとんどないし、あるとしても、多少気まずい思いをしたくらいだった。そしてそれも、いま考えれば、私自身の経験値のなさに依るところが大きかったように思う。

例えば、数年前に大学の友人と一緒に旅行へ出かけたときに泊まったゲストハウスでは、立ち上げや運営にまつわるオーナーの苦労話や自慢話を深夜まで聞かされねばならず辟易した思い出がある。友人はそのオーナーの話に多少なりとも感銘を受けていた様子だったけれど、私はその人の瞳が過剰に澄んでいるのが気になって、どうしても相手の話をまともに聞き入れることができなかった。頭から「自分のことが正しい」と信じ切っている人と話すのは、「これを話したら多分この人は怒るんだろうな」ということがなんとなく見えてしまい、それを避けようとしながら言葉を選んでいる内にだんだんと疲れてしまうことが多い。一時期、巷で「根拠のない自信を持て!」というような文言をよく耳にすることがあったけれど、「根拠のない自信」を持つがゆえに、相手に対して不必要に圧迫感を与えてしまうこともあるのではないかと思う。このまま彼に話をさせれば、きっといつかは私が信じるものとぶつかってしまう。そういう予感が、私と彼との間に微妙な距離を生んだ。

とはいえ、そんなことは折り込み済みで話をするのが、大人同士の会話というものだ。相手の信じる「正しさ」と自分の信じる「正しさ」をいちいち衝突させ合っていたら、ほとんどの会話が成立しない。自分の本音を相手にぶつけて、自分もまた相手の本音を受け止める。そういう真剣勝負のようなコミュニケーションを、私はついつい誰彼構わず吹っかけてしまいがちなのだけれど、穏やかに日々を生きている人たちにとってそんな風な粗野な人との関わり方はたぶん必要ないのだろう。建前の次元で互いの間合いを測り合うこともまた、この世の中を生きていくにあたって必要な技術なのではないか。最近になって、そう思い知らされることが増えてきた。

ゲストハウスに限らず、私には自分の先入観で他人との関わりをいたずら遠ざけてしまっている部分がかなりあるのだと思う。異なる考えを持った者同士が不用意に近付いて気まずい思いをしないようにするための工夫として、先入観を持つことそれ自体が悪いことだとは思わない。けれど、よく考えてみれば、気まずさを最初から完全に排除した人間関係なんてどこにも存在していないのではないかとも思う。先入観を持って見ている間は、自分が先入観を持っていることに気付けない。うっかり皮肉を言ってしまいそうになる自分とどう折り合いを付けていくか。それがこれからの私の課題だ。

(更新中)

「SAN値」

同年代の人と打ち解けるのが苦手だった。とくに、大学に入学してから周囲の人に対して感じた違和感にはすさまじいものがあった。私は高校を卒業してから予備校の寮に入り、そこで一年間ほとんど誰とも口をきくことのない囚人のような毎日を過ごしていたので、高校から順当に上がってきた人たちやこれから大学生活を謳歌しようとする学生のノリに付いていくことができないのはおろか、そもそも他人とどう話したらいいか全く分からなくなっていたのだった。サークルやコンパやバイトや就活に自然と適応しながら「大学生」になっていく同級生たちを尻目に、私は一人で悶々としながら自分の頭の中の世界を作ったり壊したりするので精一杯だった。

そんな私は、同級生との間にささいなことで距離を感じた。たとえば、大学に入ってから、彼らは授業で使う用紙のことを「レジュメ」と呼んだ。私は初めて聞くその言葉に違和感を覚えた。高校までと同じように「プリント」でかまわないのではないか。どうしてわざわざ同じ意味のことを違う言葉で呼んでいるのか。上級生や大学教授たちが長年の慣習でそういう風に呼んでいるのならまだ分かる。私が疑問だったのは、昨日まで私と同じように「プリント」と呼んでいたはずの同級生たちが、何の躊躇もなく「レジュメ」と呼んでいたことだった。彼らは、今まで自分たちが「プリント」と呼んでいたそれが大学内では「レジュメ」と呼ばれているらしいことを察知すると、今までの自分たちの呼び方をあっさり捨て去り、新しい呼び方をさも自分たちがもとから知っていたかのように使いこなした。新入生歓迎会を容易く「新歓」と言い換え、卒業生を送る会を躊躇いなく「追いコン」と呼ぶ。他の多くの学生たちと同じように言葉を使い、上級生たちがしてきたように行事を開いた。そうして彼らは「大学生」になっていった。

私にしてみれば、彼らはただ同調圧力に屈しているだけのように見えたのだが、彼らにとってはそれが自然だったのだと思う。ちょうど高校卒業までの私が、学校や家庭を取り巻く「常識」を内面化し、自分の感受性と世間の期待とが区別の付かないくらい渾然一体になった状態で、さまざまな意思決定を行っていたように。

どこの集団にも、それが集団である限り必ず、ウチとソトを隔てる目に見えない境界がある。それは、内部の人間にしかわからない空気感だったり、わざわざ言葉にしなくても伝わる(とお互いが思い合っている)不文律だったりする。言葉遣いもそうだ。誰も「それをそういう風に呼ぶことにしよう」と明確に了解し合ったわけではないけれど、話をしている内にお互いの間で自然と言葉遣いが似てくるということはよくある。コミュニケーションが積み重なってくるほど、お互いに「わざわざ言わなくても分かる部分」が醸成されていき、それが相手に対する親しみや信頼を生んだりもする。逆に言えば、そういう部分は外部の人には分からない。内部の人にとっては言わなくても分かることが、外部にとっては言わなければ分からない。そこに境界がある、と言える。

 

さて。唐突だが、私は何年か前からよく若い人の間で使われるようになった「それな」という言葉が嫌いだ。前置きが長くなったが、今回言いたかったことはこれに尽きる。ホラーゲームなどの世界の一部では、プレーヤーがゾンビや怪物に接触して恐怖を感じたときに蓄積する「SAN値」という正気度を表す指数がある(一定の閾値を超えると発狂する)そうだが、私は同年代の人の口から「それな」という言葉が飛び出す度に「SAN値」が上がり、放っておくと思わず突っかかりたくなる衝動に駆られる。同年代の間で使われる俗語が、私は何から何まで片っ端から好きではないのだが、なかでも手っ取り早く「同調」を示す「それな」が最もタチが悪い。

ある社会学者が話していたことには、俗語や流行語にはそれを使っているもの同士の間で仲間意識を強める効果があるらしい。それはちょうど部族の内部で使われる合言葉のようなもので、お互いが同類であることを示すために使われるのだという。

先ほども述べたように、人と人がコミュニケーションを積み重ねていくと、次第に「わざわざ言わなくても分かる部分」を互いに共有するようになる。集団の内部にいるときほど、自分が集団に属していることを意識しない。外部から見たときに、ある人々が「得体の知れない何か」を共有しているように見えたときに初めてそこに外部と切り離された「集団」があるように感じられてくる。内部でしか通じない言葉を使うことには、そういう「わざわざ言わなくても分かる部分」をピンポイントで確かめ合えたような気になる心地良さがあるが、同時に外部の人に対して、そこに乗れない居心地の悪さや共有しているものが分からない得体の知れなさを感じさせることになる。俗に「内輪ノリ」と呼ばれるものが、それだ。

私は「それな」が嫌いだ。それはつまり「内輪ノリ」を外から眺めるのが不快ということかもしれない。自分には「内輪」と呼べるものがないから、他人が「内輪」で楽しそうにしているのを見ると嫉妬する、ということかもしれない。けれども全ての「内輪ノリ」が不快な訳でもない。見ていて不快にならない「内輪ノリ」と不快になる「内輪ノリ」があるような気がする。その違いはなんだろう。他人が楽しそうにしている姿を見てこちらまで楽しさが伝播してくるように感じる場合と、その反対に「SAN値」が蓄積される場合とがあるが、それらはどう違うのだろう。

煮詰まってきたので、一旦やめる。今日も暑いが、そろそろ出かけよう。部屋の中にいるとついつい考え事ばかりしてしまって良くない。 

(更新中)