#6

明日、人と会う約束があるのだが、なぜかヘンなスイッチが入ってしまい、今夜は寝ないことにした。午後8時くらいからひたすら意味もなくマクドナルドで粘っている。現在時刻は午前1時37分。客は私とあと二人しかいない。そして今、そのうちの一人が荷物をまとめて出て行った。残るは私と、客席の隅で数時間前からパソコンにかじりついている男性の二人だけ。どちらが先に脱落するか。まだそこまで眠気は来ていないけれど、こんな夜更けまで店内に居て私は大丈夫なのか。店員さんに怒られたりしないのか心配で、胸が少しサワサワしている。パソコンにかじりついている彼には、できれば私と共に朝まで店内に居てほしい。

連日の移動で、そろそろ泊まる場所を確保するためだけにお金と時間を使いたくないと思っていた。お金は掛けたくないけれど、もっと時間を贅沢に使って、好きなだけ何もしない時間を過ごしたいと思っていた。気が付けばもうこんな時間だ。望みはある意味叶った。来るところまで来てしまったのだから、あとは野となれ山となれ、最後までやり切るしかない。

加えて私は今、もう一つの限界にも挑戦しようとしている。今朝バナナを4本食べてから、コンビニで仕方なく買ったカロリーメイトを除いて、私はほとんど何も食べ物を口にしていない。空腹を通り越すと、意外にも人は腹が鳴ったりしないらしい。代わりに、溶かすものをなくした胃が、分泌した胃液を余らせて逆に胃もたれを起こし始めている。一応胃薬は持っているが、果たしてどこまで耐えられるか。マイナスとマイナスを掛け合わせるとプラスになるように、空腹と睡魔が互いに互いを喰い合うことで、気分はどこか高揚しはじめている。

時刻は2時。驚くべきことに、こんな時間にもまだ街は活動していた。窓からは、すき家日高屋、それから1時間1500円と大きく書かれたガールズバーの看板が光って見える。街を歩く人もまだちらほら見かけるし、車やタクシー、自転車やバイクも四方から次々に現れては消えていく。というか、そもそもマクドナルドが24時間営業にしているのだって需要があるからだろう。当たり前だが、人は深夜でも起きていた。窓から見える目の前の道で交通整理をしている警備員の人も、点滅した棒を光らせてさっきからずっと街角に立ち続けている。

 

時間はまだたっぷりとあるので、せっかくだから今の自分にしか書けないことを書いていきたい。最近はなんだかやたらめったら書きすぎて自分でも自分が何をしたいか分からなくなっているのだが、ひとまず日々の生活を書いていくことくらいしか今の自分にできることはないので、つまらなかろうが鬱陶しかろうが、なりふり構わず書き続けていく。書き続けていくことで、「おれってこんなことを考えていたのか!」というような、思ってもなかったような自分自身を引き出してみたい。

私の考えることなんて高が知れていて、巷ではそんな行為を「フリーライティング」と呼んだりするらしい。思ったことを思ったように書いて、構成や体裁は後から整える。大切なのは速度であって、中身ではない。考えてから書くのではなく、書きながら考える。もはや書いてから考える、と言っても過言ではないかもしれない。自分がどう思っているかなんてどうでも良くて、思いついた言葉を思いついた順序でただ書き並べていく。次に何を書くかを考える前に言葉に落とす。書き続けることで見えてくる自分自身に委ねる。

なぜそんなことをするかと言えば、普段の自分では意識できない自分の無意識的な癖を自覚するためだ。意識で無意識を変えるのは難しい。自分で自分の姿を客観的に見るのが難しいように、日々の生活の中で無意識的に繰り返してしまっている自分の習慣を、自分の意識で変えるのはかなり難しい。なぜ難しいか。習慣とは自分そのものだからだ。今までの経験から、どのように振る舞えば自分が心地よいと思うかを知っている。それらをまとめたものが習慣だ。習慣は、知らず知らずのうちに変わっていくことはあっても、自分から変えようと思って変えられるほど生易しいものではない。

 

時刻は午前3時40分。頭の中は良い感じに煮詰まってきている。眠気は不思議と薄いけれど、空腹による胃の不調は激しくて、さきほど我慢ならず一服胃薬を飲んだ。心なしか、軽く頭も痛み出している。おそらく空調のせいだろう。早く店外へ追い出すためか、温度がやや冷たく設定されているような気がする。被害妄想かもしれないが。

 

午前5時29分。予定通り一睡もしてなかったはずだが、あっという間に時が経った。そろそろ「早めの朝」と言っても良いくらいの時間帯になってきた。意外と耐えられているが、今日一日保つかどうか。店内が非常に寒いので、そろそろ外へ出たい気がしている。ワンコインで食べられる海鮮丼屋を見つけたから、そこで昼食を食べるのが今日の目標だ。でも、その前に牛丼を食べてもいいんじゃないかと思っている自分もいる。どうしよう。

 

(更新中)

#5

時刻は10時58分。宿の屋上にて、洗濯機が回り終わるのを待っている。宿のスタッフの方が大変親切で、チェックアウトは11時だというのに、洗濯が終わるまで中で待っていても良いと言ってくれた。ありがたい。布団もフカフカだったし、値段もかなり安かった。たっぷり眠れたおかげで、無事、体調も回復している。最高の宿だった。

明るく日が差し込む屋上で、風に吹かれながら時間を潰す。縁から外を見下ろすと、活動しはじめている庶民的な商店街の姿が見えた。WiFi で音楽を聞きながら、ゆったりとした時間を過ごす。

スマホのカレンダーを開くと今日の日付の欄に「おじいちゃんの誕生日」と書かれてあった。暇だし気分も良かったので、久しぶりに実家(祖父母の家)に電話を掛けてみる。「もしもし」という祖母の懐かしい甲高い声が電話口から聞こえて、私は「もしもし稲村彰人ですけれども」とわざわざよそよそしくあえてフルネームで自己紹介するという、なんとなくいつも自分の中でお決まりになっている遊びをした。それから二十分くらい、祖母と電話で話をする。

祖母によると、私の声は一ヶ月ほど前に実家で話した頃よりも明るくなっているそうだった。84歳になったばかりの祖母も元気そうでなにより。電話では主に、父が膝を痛めて気分が暗くなっているらしい、という話と、88歳になるおじいちゃんはいつものように頓珍漢なことを言っているらしい、という話と、やっぱり笑って生きていたいね、という話と、おばあちゃんはいつもテレビの前で一人で笑っているから元気なのかもね、という話をした。選挙の頃には帰って来るかい、と聞かれたので、たぶん帰ると思うよ、と答えた。

洗濯を終えて、乾いた衣服をバックに詰め込む。ポケットにちり紙が入っていたのか、乾燥機を開けたときに大量の細かい紙くずが発生してしまった。しかも、それらを人工芝がきれいに敷かれた屋上の床にこぼしてしまったので、30分くらいかけて一つ一つつまんで拾うことにした。これだけ良くしてもらったのに、汚して帰るわけにはいかない。

バックを担いでフロントに戻り、ありがとうございました、と、多めに挨拶して外へ出る。近くには肉屋や八百屋が並んでいる。滞在費を削るために、今日一日くらい断食してみようかなと思っていたのだけど、店先に置かれた果物が美味しそうだったので思わず中へ入った。バナナと麦茶を買って、また街を歩く。

近くに小さな公園を見つけたので、ベンチに座ってバナナをほうばる。公園には先客がいて、一匹の猫がニャアニャア言いながら、近ず離れずの距離で私を見つめてきた。腹が減っているのだろうか、と思い、とりあえず手に持っているバナナをひとかけら口でかじって投げてみる。猫は近寄って地面に落ちたバナナの欠片を鼻先でつつく、けれどもやはり口にはしなかった。あらためて辺りを見渡してみると、公園には何匹も猫がいた。皆、心地良さそうに日向ぼっこをしている。

そんな折、近所に住んでいる風のおばさんが自転車に乗ってやって来た。すると、猫たちはのそのそと動き始めておばさんの下へ寄っていく。おばさんは「あれ、今日はしろちゃんが来ないねえ」なんて言いながら、買い物袋で一杯になっている自転車のカゴから、汁気をのある何か美味しそうなサバの味噌煮的な惣菜をパックから取り出し、猫たちに与えていく。反対側に目をやると真っ白い毛の猫が遅れて寄って来ているのが見える。なんとも日が暖かく、気持ちの良い時間が過ぎていく。

バナナの皮を捨てに、コンビニへ入る。レジの前付近にゴミ箱が置いてあるのが見えたので、バナナの皮を持ってゴミ箱に向かう。すると店員さんが、私を何か買いに来た客だと思って、接客の対応をしようと身構えはじめる。しかし私はゴミ箱に用事があっただけなので、目の前を素通りしてスッとゴミ箱へバナナを押し込んだ。すると、明らかに私へ冷たい視線が突き刺さってくるのを感じる。まあ家庭ゴミを持ち込んでいるわけだから、私に非があると言われても仕方がない。「申し訳ないので、さすがにこのまま帰るわけにはいかない」と思い、取り立てて欲しかったものはなかったけれど店内を歩き回り、カロリーメイトを一つだけ手に取る。レジに向かうと、目の前にはおでんが見える。「ご機嫌を取るためにとりあえずおでんでも買っておこう」と思って「あ、すいません、大根をひとつ」と言うと、店員さんは「自分で取ってください」と突き放したように一言。よく見るとたしかにおでんは自分で取ってからレジに持ってくるタイプだったのだが、しかし、明らかに冷たく扱われているのを感じる。私はすぐに「ああ…じゃあ…すいません…やっぱり大丈夫です」と言って、そそくさと店を出た。自分は素のままで話しかけているのに相手にはマニュアルで対応されると、辛いものがある。私はどこでコミュニケーションを失敗したのだろう。やはりコンビニでゴミを捨てようと思った時点で間違いだったのだろうか。

いる場所が変わっても、やることはそれほど変わらない。コンビニから出た私は、ひとまず近くの図書館に向かった。中にはソファが置いてあった。まふっとしていて気持ちが良い。そのまま二時間ほどうたた寝をした。

(更新中)

#4

東京に来て、5日目。そろそろ予算が尽きてきて、都会の目新しさも感じられなくなっている。朝起きたらまた次の宿を確保しなければならないというのは、なかなか大変だ。宿を探すためにはまず、インターネットの使える場所で腰を落ち着かせなければならず、そのためにはまた喫茶店やファミレスに入らなければならない。時間やお金の制約がある中で、日々、決めなければならないことが次々と現れてくる。実家にいると気が付けないけれども、生きるということの本来の姿はこういうものなのかもしれないと思ったりもする。なにもしたくないなあ、と思っても、なにかしら行動しなければ、ただ絶えず路上をうろつき回っているくらいしかできることがない。何もしたくない、という思いをそのまま達成できていた実家での日々の方が、考えてみれば今の世の中では珍しいことだったのかもしれない。

今、私は横浜駅の前のベンチに腰掛けている。向こうには路上生活者の人たちがダンボールを敷いて寝転がっている姿が見えた。広い公園も浜辺もないこの都会で身体を横に倒そうと思えば、家に帰るかホテルか漫画喫茶に入るしかない。そこを彼らは雨風の凌げる所にダンボールを敷くことで可能にしている。いいなあ、おれも寝転がりたい。そろそろ都会にも疲れてきたのか、次の予定を決める手がすぐに鈍るようになってきた。しかし、かといってせっかくここまで足を運んだのに、このまますぐ新潟へ「帰って」しまうのも惜しい気がする。そもそも私にとって新潟は「帰る」場所なのだろうか。どちらかといえばツイッターやユーチューブを見ているときの方が、またはこうして一人で考え事をしているときの方が、「帰ってきた」という感じがする。ああ、ネットを使えるカフェに早く入ってゆっくりしたい。

昨夜は漫画喫茶で夜を明かした。漫画喫茶で起きる朝には、体力が通常の40パーセントくらいの状態で一日をスタートすることになる。おまけに、訳あって二日ほどシャワーを浴びることができなかったので、全身の不潔感がたまらなく気持ち悪い。おまけに夜更けまでパソコンで作業をしていたため、眠りに落ちたのは朝の6時で起きたのは11時。さらに、食費を削るためまともな食事を摂っておらず、いろいろと満身創痍の状態になっている。今日はもうダメになっても仕方のない日だった。考えてみれば、良くやっている方だ。さきほど横浜から東京方面へと向かう電車の中で今晩の宿を最安価格で予約できたことに安心して、目的の駅を乗り過ごしてしまったけれども、まだそれくらいの被害で済んでいるだけマシだったと思わなければなるまい。

満員電車でグロッキーになりながら、目的の駅、板橋へ着いた。徒歩30分ほどの場所にあるゲストハウスへ向かう。無心で歩いていると、いくらか気分が落ち着いてきた。板橋って意外と庶民的な街なんだなあ。古い商店が残っていて、人間の匂いがする。

目的地に到着した。宿泊費は1600円ほど。今日はたっぷり寝よう。二日ぶりのシャワーも楽しみで仕方がない。

(更新中)

#3

さきほど、あてどもなく道を歩いていたら、路上にツバを吐きつける三十代半ばくらいのスーツ姿の男性とばっちり目が合ってしまった。私はすぐに目を逸らしてそのまま等速で歩き続けたのだけれど、後ろの方から「おい」という、明らかに私に絡んで来ようとしているその男性の声が聞こえる。なおも無視して、半分無意識にあくびをしたりしながら歩き続けると、すかさず左斜め後方から「ああ、何も緊張してねえよってなあくびかよ、おい」という声がする。そのとき、私の頭は三つの自分に割れていた。「緊張」ってこういう時に使う言葉でもあるんだなあと思う自分。自分は全然びびってないと思っている自分。そうは言いながら、後ろを振り向くのがかなり怖い自分。次第に苛立ちを帯びた声が、左後ろから徐々に私に追い上げてくる。事態に巻き込まれてから一貫して正面を向き続けている私の視界にも、端っこの方にその男の姿がもう一度見えそうになっている。私は「めんどくせえな」という気持ちと「怖い」という気持ちと「めんどくせえな」とだけ思えたら格好良いのになあ、おれ、という気持ちが綯交ぜになって、スピードを保ちながら瞬時に右へ直角に方向転換した。怒気を含んだ声は、また私に向かって何かを言っている。私はそのまま来た道を折り返して歩いた。つけられているのではないかと怖がりつつも、そのまま真っ直ぐに歩き続けた。

 

私には、すれ違う人の目を無意識に見てしまうというあまり良くない癖があり、そのために知らない人とすれ違い様に目が合ってしまうことがよくある。しかし、今回のようにあからさまに絡まれたことは今までになかった。と、書いてから思ったのだが、そういえば今までにもちょくちょく絡まれたことがあったような気もする。ああそういえば、まあまあというか結構あった気がするなあ。高校の頃、なんとなくほっぺたを膨らませながら廊下を歩いていたら、髪を逆立てたラグビー部の強そうな生徒に「見たかあの顔、びゃっひゃっひゃ」という具合に嗤われたり、中学の頃、不良ぶるのを格好良いと勘違いした同級生にすれ違い様にパンチを食らわされて「びびっただろう、ひっひっひ」と挑発されたり、みんなで浜辺で焚き火をしていたらなぜか私だけが海を愛するおじさんに説教されたり。そう言えば、しばしば舐められがちな人生を送ってきたような気もする。どうしてなんだろうか。やはり見た目の問題だろうか。もう少し強そう服装に変えればいいのだろうか。強そうな服装ってなんだろう。

男の私でさえこんなに怖かったのだから、女の人が強そうな男に絡まれたりしたら、さぞ怖かろう。いやー怖かった。

#2

二日前にも利用した宿の安さを気に入り、今晩もまた同じ宿に泊まりに来ていた。が、隣で寝ている客のイビキがでかすぎて、ろくに寝られやしない。なんなんだろうまじで。スマホを見ると、時刻は7時11分。たしか昨夜は深夜3時ぐらいまで寝付けなかったから、今日はせいぜい4時間くらい眠れていない。自信を持って断言できることはそれほど多くないけれど、私は、いびきだけは本当に嫌いみたいだった。そういえば、父もよくいびきをかく男だった。六畳一間に親子三人が川の字になって寝ていた子どもの頃、父のいびきがあまりにうるさくて、隣で寝ている父の背中を蹴ったり物を投げたり布団を引っ張ったりしていびきを止めようと、なんとか足掻いていたことがあった。他人のいびきだけは本当に昔から悩まされることが多かった。

 

結局眠れず、そのまま朝を迎えた。隣りのコインランドリーで洗濯をする。時間を潰すために外をぷらぷらと歩く。

歩きながら、タモリ倶楽部はどうしてあんなに良い雰囲気なのだろう、というようなことをぼんやり考えていた。自分が好きなものを本気で語ろうと思えば、人はある意味、変態的にならざるを得ない。変態、とまでは言わないにしても、自分自身のどうしようもない変えがたさについて何度も何度も悩んだり開き直ったりを繰り返している内に、ある種、善悪を超越した「どうしようもない人間臭さ」みたいなものに深まっていくことはあるのではないか。話す人を間違えればドン引きされてしまっても仕方がないような自分自身のある部分。それを口に出しても否定されない空間があることへの安心感。その安心感が、あの独特のゆるい笑いを作り出しているのではないか。そんなようなことを考えながら歩いていた。

コインランドリーへ戻ると、私が利用しているものの隣りの洗濯機を覗き込んでいる一人の男性が話しかけてきた。「子ども用の緑色の靴下が片方見つからず、あなたの洗濯機に間違って入ってはいないか」とのことだった。私はちょうど回転が止まった洗濯機を開けて中を調べた。が、靴下は見つからなかった。しかし、それから「大切な靴下なんですねえ」みたいなことを話しているうちになぜか男性と軽く打ち解けて、しばらく和やかに立ち話をした。話の流れで私が軽く素性を明かすと「おれも二十五才くらいのとき、どうしても仕事が嫌になって、一年くらいあちこち旅行してた時期があったもーん」と、男性は話した。私は、自分があまりにも平常心で知らない人と話していることに、不思議と冷静だった。そういえば、こんな風に知らない人といきなり打ち解けて話すことは昔からよくあった。他人と気さくに話をしているこの瞬間が、私は好きだと思った。この自分を忘れないようにしたいと思った。男性は「また」と言ってコインランドリーを出ていった。去り際に「もしもどこかで会えたら」なんて軽く笑って挨拶をしたけど、きっと彼とはもう会えないだろう。それでよかった。

それからまたしばらく辺りを歩いた。WiFiを使うためにマックか喫茶店にでも入ろうかと思ったが、どうも昨晩から胃が悪く、ポテトの匂いが充満するマクドナルドには到底入れそうになかったし、喫茶店でコーヒー一杯でさえ口にするのは難しそうだった。私はベンチを求めて公園に向かった。

公園には、ケラケラと笑いながらはしゃぎ回る園児と、その子を追いかける若い母親の姿があった。辺りを見渡すと、その様子を異様なほど喜ばしそうな顔で眺めている一人の好々爺が座っている。その顔が、どこか達観しているかのような、とろんとした、恍惚とした表情をしていて、目の前を横切るときに思わず私は会釈せざるを得ないような圧力を感じた。その和やかな雰囲気から、彼とも軽く立ち話ができそうな気がしたけれど、なんとなくそうしがたい呑み込まれそうな怖さがあって、私は目が合う前に視線を逸らした。

ベンチに腰掛けると、少し離れた先には、他人の視線など全く気にしないような素振りで大胆にベンチに寝転んで漫画に噛り付いている30代くらいの女性が、さらに向こうには、昼間からビールを飲んでぼうっと宙を見つめる男性、弁当を食っているスーツ姿の男性、事務員風の女性が座っていた。それぞれが思うままにベンチに座り、昼下がりのひと時を過ごしていた。

#1

面倒くさいからいつも下書きなしでブログを公開するのだけれども、そのせいで一行一行に対する《「あの人がもしこれを見たらどう思うかな?」チェック》が甘くなってしまいがちだ。「あの人はこう思うだろうけど、でもあの人は…」みたいなことを繰り返していくうちに全てが嫌になって公開した文章を取り消したくなるのがいつもの癖で、昨日書いた文章も一旦は取り消したのだけど、それでは何も変わらないから仕方がないので、とりあえず中途半端なまま公開することにした。日々、完全におめかしし切った格好で他人の前に自分の姿を現していないように、文章もまた完全な姿にこだわって推敲し続けていたら、いつまで経っても公開することができない。いや私の場合、他人に自分の文章を読んでほしいという気持ちもそれほどないから、公開しなくたって別に構わないのだけれど、「誰かに読まれている…」というプレッシャーがなければ、わざわざ文章を書こうという気にならないのもまた事実。文章は書きたいのだ。書きたいというか出したい。という訳で、最後に(更新中)と記すという邪道をいつものように使いながら、あくまでも暫定的な自分自身の思考の流れをここに書き留める。文章という形態である以上、どうしたって後にも残ってしまうけれど、しかし、あくまでそれも暫定なのだ。情報は受け取った分だけどこかで外に出さないと自分の中にひたすら沈殿し続けて頭がおかしくなってくる。つねに最新の自分が、過去の自分を否定し続けるような書き方がしたい。私の頭の中もだいたいいつもそんな感じだから。

(更新中)

 

目が覚めた。時刻は9時10分。頭がくらくらするのは収まったが、まだ布団に寝転んでいるからなのか、いまいち目が冴えない。チェックアウトまであと50分。そろそろ歯を磨いて、顔を洗って、服を着替えよう。

その前に、今朝見た夢が個人的に爽快だったのでそれだけ書き留めておく。夢で、私は中学生だった。ちょうど卒業の時期で、クラスメートたちは別れの挨拶などをして涙ぐんだりしていた。そんな中、私は一人の男子生徒の前までズカズカと歩いていき、いきなり罵声を浴びせた。「お前は今まで散々おれをイジッてくれたけど、てめえは本当だったらおれをイジれるようなタマじゃねんだよ!!調子に乗りやがって!!」みたいなことを口走っていた気がする。当時、イジられることで辛うじてクラスの中に居場所を得ていた私は、ウケることによって味わう快感と、それゆえに蓄積するフラストレーションを同時に感じていた。あれから十年近く経った今、夢の中で小さくそれが爆発した。爽快感があった。これでおれはクラスの中でもう絡みにくいキャラになってしまうだろうけれども、どうせ今日で卒業なのだからそれも関係がないと思えた。というかそもそも夢だった。いい夢だった。

 

思春期の頃を思い出すと、今の自分の在り方を考える上でヒントになることが多い。本来ならいじめられてもおかしくないほど気が小さかった私が、辛うじていじめられることなくクラスの中にささやかな人間関係を作ることができたのは、学校の成績が良かったために周囲から一目置かれ、自虐することによってそれなりに他人に気安くイジってもらえるよう心掛けていたからだった。どちらかが欠けていたら、私は周囲から孤立して学校に行けなくなっていただろう。現に、大学に行けなくなった頃の私は、学業成績によって自分を優秀に見せることもできず、イジられることによって自分なりに精一杯の親しみやすさを演出することもできず、素の暗さが前面に出てどう考えても近寄りがたい人間になっていただろう。今はどうか。きっと大して変わらないんじゃないか。今までとは違う人間関係の在り方を、いい加減私は覚えなければならない。

 

ホテルのロビーでお茶を飲み、少し歩いてマックに入った。午前中から体を動かしているからか、明らかに気分が良い。

 

それから2時間ほどパソコンをいじって時間を潰した。ネットで横浜辺りに宿を予約してから、ユーチューブでひたすら音楽を聴いた。音楽を聴いていれば、いくらでも時間が潰せてしまう。

 

しばらくすると、左隣の席に子連れの夫婦が座った。奥さんの方が、子供にやたらめったら注意しているのでなんか嫌な雰囲気だなあと思ったら、席に座ると夫の方も子どもを無視して仕事の愚痴を次から次へと垂れまくって、うわあと思った。夫の愚痴に対して、奥さんが言葉を返す。それが上手く聞き取れないのか、夫がその都度「ああ?」と上がり調子で聞き返す。その「ああ?」が私の耳には非常に耳障りで、もう移動しようと思った。ちょうど右隣に座った旅行客風の男性の体臭がきつかったので、いよいよ席を立つ踏ん切りがついた。そして店を出て、私は駅へ向かった。

 

いじめられないよう必死に生きていた思春期の頃を思うと、今になって思えば、自分が多数派につくことで他人を間接的にいじめていたこともあっただろうと、苦々しい気持ちになる。今は私ももうすっかり社会的弱者になってしまったけれども、当時は自分可愛さに多数派に取り入ることで「みんなと違うから」というだけの理由で無意識に他人を傷付けていたこともあっただろう。大学に行けなくなり始めた二十才くらいの頃になっても、私は古本屋で社会から落ちこぼれた若者についての本を読んでは、「まさか自分がそうなるはずあるまい」と、他人事に思っていた。彼らと自分は違うと思っていた。内心、見下していたのだった。今もまだ私にその気持ちは残っているのだろうか。だから自分を受け入れられないのだろうか。

 

私が「ふつう」の人と出会うとき、彼らは私を「自分とは違う人」として腫れ物に触るように扱うだろう。私には、彼らがそうする理由が痛いほどよく分かる。なぜなら、私もかつてそうだったから。いや、むしろ私は今でもどこかで自分で自分を恥じているのだった。私だって、私を見下す人と一緒に私を見下せたらどんなにいいか。こうなるはずじゃなかった、という思いがある。その思いがいつまでも胸に沈んでいる。

 

思い付くまま書き進めていたら、うっかり鬱っぽい所まで足を踏み入れてしまった。文章とは裏腹に、私の気持ちは久しぶりに清々しく澄んでいる。午後は、たい焼きか何かをつまみながら街を歩きたい。

 

上野に着いた。平日だというのに人がごった返している。道端に座って深呼吸をすると気分が良かった。知らない場所で知らない人たちに囲まれているというのも久しぶりの感覚だ。

 

ここでもう一度、さっき考えていたことの続きを考えたいと思う。こうして人混みの中を歩いているだけで、私は自分自身が一瞬で他人を属性によって見分け、判断していることに気付く。性別、身なり、年齢、美醜、障害の有無、日本人かそうでないか。そうやって他人を属性で判断することと、他人を見下すこと、差別することはどこがどう違うのだろう。私が心の奥で忌避しているところの「ふつう」の人からの見下しと、今、私がこの雑踏の一人一人に対して向けている眼差しとは、どこが違うのだろう。子供を感情的に叱り飛ばす若い母親の声に心をかき乱され、小便器に痰を吐き出す老人に眉をひそめ、何かしら体に不自由のあると思しき男性と反射的に目が合わないよう瞬時に視線を逸らそうとする自分。周囲を眺めながら、冷徹な目つきで相手を捉えて、また次々に視線を移す。どう思えば『正解』なのかは知っている。しかし、それは本当に私の本心だろうか。自分が恐れているはずの他者からの眼差しを自分もまた誰かに向けている。この矛盾をどう考えればいいのだろう。

 

自己嫌悪に陥っているとき、誰かの軽口を叩くことだけが心の癒しのように思えることがある。誰かを傷付けるということが自分を救うということに役立っている。でも、それに依存するようになるとますます他人は離れていき、孤独になっていく。

今では信じられないが、そういえば二十一歳くらいのときまでずっと、私は「他人を嫌ってはいけない」と思っていたのだった。以前にもこの日記に書いたと思うが、自分から他人に向けた「嫌い」という感情は全て自己嫌悪の裏返しで、自分が認めたくないと思っている自分の側面を相手に都合よく投影しただけの同族嫌悪に過ぎない、だから他人をいくら嫌っても自分自身が本当に見つめなければならない部分からは逃げていることにしかならない、と、そのように考えていた。基本的には、今でもその考えは変わらない。けれど、そう書いていた当時の私は、ある意味で観念的だったのかもしれないとも思う。あるべき価値観の中に自分を置いて、実際の生活の中で巻き起こる自然な感情の揺らぎを細やかに感じ取ろうとすることからは避けていた。他人を嫌ってはいけないだなんて、当時の私は本心からそう思えていたのだろうか。他人との関わりをどこかで避けていたのは、今も昔も変わらない。

気が付けば、私は半年くらい前から積極的に他人への嫉妬や愚痴を口にするようになっていた。以前より極端に落ち込むことは少なくなった気がするけれど、他人との関わりで苦労を感じることは依然として多い。特定個人のために向けられた「嫌い」は放っておくと肥大化して、いつしか自分自身の全て、もしくは他者一般を嫌ってしまいそうになる。そうなったら、この世界に私の場所はなくなる。

 

また暗いことを考え始めている。けれど、心はいたって健やかだ。もうかなり休憩したからそろそろ辺りを散策しよう。

 

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しばらく歩くと、ハーモニカを演奏する路上ミュージシャンがいた。素敵な音色にふいをつかれて、思わず目に涙がにじんだ。そういえば何年か前にハーモニカを買って練習をしようとしていた時期もあったなあ。帰ったらまた始めてみようか。

 

演奏は、結局最後まで聴いてしまった。ささやかながら投げ銭をあげたら、非常に人の良さそうな笑顔で感謝された。私も「素敵でした」などと声をかける。いやあなんて豊かな午後だろう。少し歩いてはベンチに座り、穏やかな気持ちになっている。なんだかもう軽く微笑んでしまっている。良い日だ。

 

ベンチに座ってツイッターをみる。なにやら今度の総選挙は大荒れのようだ。事態は錯綜しているし、人によって色々な考え方があり得るけれど、今回は民進党希望の党に取り入ったことで中道左派の投票先がなくなってしまったとかそんなようなことらしかった。無党派層は小池新党になびくのだろうか。どうなるんだろうか。私もどうしようか。

 

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マクロなことを考え始めるとまた観念的になって良くないので、目の前に生い茂るハスにとりあえず目をやる。あまり詳しくないので、これ以上ここで口走るのはよそう。お腹が空いてきたので、そろそろ移動したい。

 

漫画で有名な、東京都北区赤羽に来た。が、今のところ変わった光景には出会っていない。地方出身の私からしてみれば、街並みもふつうに都会だなあとしか思わないのが悔しい。腹が減ったので、とりあえず真っ先に目に付いたカツ丼屋で夕食をいただくことにした。

レジにて。料金が「853円」と表示されてあったので、千円札と五十円玉、それから一円玉を三枚、台へ置いた。けれども一向にお釣りが返ってこず、店員の中国人の方もなにやらあたふたしている。どうやら研修中の人のようで、しばらくしてチーフっぽい方が出てきて、目の前でレジのやり方を教えはじめた。でも、それにしても様子がおかしい。すると、よく見ると料金の表示が「730円」になぜか変わっていた。すかさず謝罪をして「すいません、値段を勘違いしていました」と声をかける。そのとき、ようやく店員さんは私と目と合わせて、笑いかけてくれた。それまで「どんな嫌がらせをする客だろう」と思われていたに違いない。店員さんには、なぜか「こちらこそすみません、研修中なもので」と謝られてしまったけれど、これはどう考えても私が悪かった。申し訳ないことをした。けれど、しっかり謝罪することができて良かった。

特定の言動を強いられる空間は苦手だけど、こういう風にふいに知らない人と軽く言葉を交わしたりする瞬間は好きだ。人付き合いは苦手だけれど、人と話すのは嫌いじゃない。むしろ好きだ。

 

日が暮れてきて、少し気持ちも寂しくなってきた。引き続き、街を歩こう。

 

公園にベンチを見つけたので、座る。荷物が重いので一日歩いているだけで体力をかなり消耗する。今日もよく眠れそうだ。

 

久しぶりにブログを書いている。今日は書きすぎたくらいに書いている。以前は自分のリハビリ的に、思ったことを吐くようにして書いていたのだが、最近は読む人のことを意識しすぎてどのように書いたら良いか分からなくなっていた。自分をよく見せようとすると、全く手も足も出なくなる。そもそも表現するということはかっこ悪いところも含めて自分を見せることなのではないか。けれど、他人の目に触れるものである以上、客観的な評価の眼差しから逃れられない。かっこ悪い、だけではだめだ。表現として完成しているとは言えない。自分を外に向かって開くためにも、必要な努力を怠ってはいけない。

今夜の宿を目指して横浜に向かう。電車に揺られて一時間ほど、今回の選挙について様々な論者が様々なことを言っているのをツイッターで見ていた。自分の人生さえろくに生きていないくせに、こういうときに野次馬的に旬な話題に飛びつくのはみっともないような気もするけれど、人々がそれぞれの立場・利害・感情に動かされてうごめていく様を見るのは、どういうわけか割と楽しんで見てしまう。そんなことをしているうちに、目的の駅へ着いた。

 

ネットで調べていた時点である程度分かってはいたことだが、予約した宿は思った以上の繁華街にあった。宿の場所を確認するためスマホで地図を見ていると、あるお店の場所を調べてくれないか、と女性に声を掛けられた。どうやらスマホが上手く作動しないようだった。私は「いいですよ」と、ちょうど開いていた自分のスマホの地図を見せ、店の名前を聞いて入力し、それを映した私のスマホの画面を、彼女のカメラで撮影してはどうかと提案した。それがうまくいくと、彼女は軽やかに私に感謝と挨拶をして、去っていった。

一瞬の出来事だったが、さすがにこの程度のことではビビらなくなっている自分に気付くと少しだけ心が弾んだ。それから、看板にキワドイ言葉が並ぶ、やたらと派手な街並みを連ねる風俗街を通っても、道端の強そうなお兄さんにそれほどビビらなくなっている。辺りをキョロキョロ見たり、背筋を曲げて歩いたり、俯いて歩いたりしなければいい。この辺りの店に私一人で入るには、まだかなり時間がかかるだろうけれど、それなりに変わってきている自分を少し頼もしく思えた。