四月十二日

14:29 港北区図書館

昼食を家で済ませて、今は図書館にいる。四月の初旬に引いた風邪も少しずつ良くなってきて、ようやく調子を持ち直してきた。やっぱり体調を崩すのは良くない。健康を損なうと、外を散歩したり自分の食事を自分で用意したり、そういう生活のごく基本的なことすらできなくなってしまう。私の生活は私が体調を崩せばあっという間に回らなくなる、という当たり前のことを思う。

とかって言いながら、本当のところで私はどれほどその事実を切実に受け止められているだろう。先日もご好意に甘えて、風邪を引いているというのに結局知人のお宅にご厄介になってしまった。ありがたいと同時に情けない話だと思う。私はまずこういうところから改めていかなければならない。誰かに何かをしてもらうばかりでなく、自分から誰かに何かをしてあげるということ。昨年の年末には「来年は自分から動いていけるようにならなければ」とかってほざいていたような気がするが、気が付けばもう四月になり、来月には年号も変わる。自分の尻も拭けていない男が「他人のために」だの「自分から動く」だの、聞く人が聞けばチャンチャラおかしな話だろうが、気が付けば自分のことばかり考えて勝手に世界を狭くしてしまう私のようなとろい人間には、こうして何度でも自分で自分に言い聞かせるしかないように思う。

 

というか、そもそも私の生活が成り立たなくなったところで、季節の変わり目になると必ず風邪を引く男がこの世からひとり消えるだけのことだ。さらにいえば私は現在お金を稼いでいないわけで、自分の生活を自分で支えてすらいないのだから、もう何を言っているんだかという話だ。身体の健康を取り戻しつつある今、やはりこのことの意味をもう一度ちゃんと考えなければと思う。いつまでも他人に何かをしてもらうだけのこんな暮らしはやめたい。 

四月五日

19:07 タリーズ横浜駅前店

今日も昨日と同じような思考回路でいつの間にやらどこぞの喫茶店に辿り着いていた。とにかく肩と首の痛みがなんとかならないことには、仕事探しもへったくれもない、ということを言い訳に、ユーチューブでひたすら音楽に耽っている。

聴くのはいつも似た曲ばかりだ。いろいろな曲を聴きたい、という好奇心はそれなりにあるけれど、同じ曲を聴き続けたい、という気持ちもそれ以上に強くある。きっと安心感を求めているのだろう。お馴染みの曲を聴いていれば、どこに行ってもそこがお馴染みの場所になる。ただそうやって、どこへ行っても勝手に馴染んで気を抜いてしまうから、ついついおれは公共の場所でも礼儀やマナーをおろそかにしがちなのだろうな。道端で鼻くそをほじるのは、自分でも悪い癖だと思っている。

それはともかく、三、四日前に引いた風邪がなかなか治らない。連日、喉のヒリついた痛みで目が覚める。起き抜けに鼻をすすると、緑色の痰が口から飛び出す。それがいつも自分の身体から出てきたとは思えないほど綺麗な緑色をしているので、毎朝、不思議な気持ちになるのだった(まるで絵の具で人工的に着色したような鮮やかなパステルグリーン。私の身体のどこにそんな色があったのだろう)。そういえば、子供の頃によく「鼻水が緑になったら、もう治りかけだよ」みたいなことを聞かされたけれど、ネットで調べたところによると、それもどうやら誤情報らしいね。緑色の痰は、細菌と戦って死んだ免疫細胞、とかって話で、詳しくは知らないけれど、ともかくまだ身体は風邪と戦っている最中だということらしかった。

そんなことより、今回の風邪で一番やっかいなのは、肩と首だ。とにかく肩から首にかけての凝りがすさまじい。二、三日前の肩は針金でも通したみたいにガチガチだった。あれは一体なんだったのだろう。いや、だいたいの検討は付いている。その日の前日、いろんな事情があって吹きっ晒しの場所でひたすら風に打たれる数時間を過ごしたことがあったのだが、あまりの寒さにずっと身体が強張っていたのだった。寒いと肩が自然に上がる。その日は寒すぎてずっと上がり続けていた。おそらく、それでおかしくなったのだろう。

いまだに痛い。なんとかならないか。身体も少しだるいので、ともかく帰って早く寝よう。 

四月四日

13:31 カフェ(菊名駅前)

よく晴れている。ここ数日は驚くほど寒かったので、日差しの暖かさが身に沁みてありがたい。家にいても良かったのだが、陽光に誘われて街へ出る。

何をするわけでもなく外に出たこういう日は、数十分もするとどこにも行き場がなくなって、途中で必ずどこかの喫茶店に立ち寄ることになる。数年間の都市生活によって、地方出身者の私にも知らぬ間にそういう習慣が身に付くこととなった。地元だったら、こうはいくまい。いや、別にそうでもないのか。新発田にいたら、図書館か生涯学習センターなどの無料でインターネットが使える公共施設か、TSUTAYAかMcDonaldなどの格安でインターネットが使えるカフェに行く。菊名にいたら、図書館かMcDonaldかドトールタリーズに行く、ってやっぱり同じだった。WiFiがあればどこでもいいのだろうか、俺は。

こうやって自分の行動を書き出して改めて振り返ってみると、なんだかほんとうに「貧すれば鈍する」という言葉を地で行っているような気がして、うんざりする。かといって豊かになりたいという気持ちもあまりない。それは必ずしも経済的な意味だけではなく、野望も希望も欲望も、あらゆる意味で自分を駆り立てるほどの望みがないのだ。行動の一つ一つに重みがない。重みを置くべきものがない。

自分から進んで何も選んでいないし、何も選んでこなかった。しかし、何も選ばなかった、ということさえ客観的に見たら、「何も選ばなかった」ということを選んだ、というように見られるのだろうか。だとしたら不服だ。でも、それも仕方ない。何かを選ぶにせよ、何も選ばないにせよ、結局は今いるこの地点から始めるしかない。

 

いつもなら反対側の駅出口前にあるカフェ(ドトール)に行くのだが、今日は初めてもう一方の側にあるカフェ(名前はまだ知らない)に来ている。微妙な違いだけど、ドトールよりも隣の座席との距離があって、若干過ごしやすい気がする。アイスコーヒーもこちらの方が美味しい。来られてよかったと思う。まあ、どうでもいいことだけど。でも、こういうどうでもいいことをこそ書いていこう。

ていうか、そういうところだったじゃないのか、そもそもこの日記って。立派に見えるところばかりが人間じゃない。立派に見せようとするだけが生き方じゃない。自分の褒められた部分だけを表に出して、アピール、とかなんとかって、そういうやり方は私に合わない。

おしゃべりな人間ほど、つまらない。くだらない会話ほど、長く続く。そういうものだと思う。この日記も、書けば書くほど野暮なものになっていく気がするし、実際そういう面はあると思う。でも、それでも、この日記の中でくらいは自分で自分を自由にしてやりたい。なんというか、文章の中ではどこまでも神経質になれるからこそ、文章それ自体の存在意義、みたいなものについてだけは、いい加減になってやらなければならないような気がする。文章を書く動機がどれほど幼稚で未熟なものだったとしても、文章を書くことそのものを否定してはならないのではないか。

あらゆる動機は、不純なものだ。不純なものを、いかに隠して綺麗に見せるか。私だけじゃない、私たちがしていることは、すべて、そういうことなのではないかと思う。美しくあることを目指すことはできても、美しいものそれ自体になることはできない。不純なもの、邪魔なもの、意味がないもの…美しくないものをどこまでも排除しようとしたら、最後には何も存在できなくなる。

四月一日

12時ころ 港北区区役所

新しい年号が発表されたらしいが、昨夜の反省を活かしてネットでは調べないことにする。なんというか、こういう「節目」を感じさせる出来事は、最初に知るときもそれ相応の情緒、というか、雰囲気作り、みたいなものを大事にしたほうが、なんとなくいいのではないか、ということを昨日少しだけ思った。どんなに美味しい料理でも、プラスチックのトレーに乗せて出されたら、そんなに美味しそうには見えない、みたいなことで、これもそれと同じようなことなのではないか。年号が私の人生にとってそんなに大事なのかと考えたらかなり微妙だけど、とはいえ私も社会や世の中の流れと無関係に生きているわけではない。もちろん年号が変わるから私の人生も変わるとかってことではないけれども、そうはいってもこれもなにかの区切りなので、これを機に自分の生き方を変えていきたいと思っているというかなんというか、いろいろと考えている。

とか言っといて、実はさっきツイッターを一瞬見てしまった。すぐに閉じたけれど一瞬それらしい二文字が視界に入って、まずいと思った。惰性っておそろしい。しかしまだ確証はない。年号についてはもうネットでは絶対に見ない。この手続きが終わったら図書館に行ったりして新聞か何かで見たい。もしかすると私は根っこのところでは意外に保守的な人間なのかもしれない。

 

いま、市役所で引っ越しに関する手続きを行なっている。数日前に地元の市役所から転出証明書が届いたのだ。久しぶりに社会と接している。いろいろな人がいる。いろいろな人がいるということを久しぶりに目の当たりにしている。久しぶりの感覚だ。

市役所の建物は思った以上に古くて、窓口はかなり混雑していた。私はまず転入届を提出して、それから国民健康保険の加入をして、最後に国民年金の住所変更をした。なにがなにやらという感じだが、一ヶ月近くネットでひたすら下調べをし続けていたこともあって、思った以上にスムーズにできている。というか、調べても結局のところはよく分からなかった。役所の手続きひとつとっても、全てを把握しきることはできないし、別にそれでもいいのだなあと思った。分からないまま突撃していく。分からないことがあったらその時点で誰かに訊く。結局はもう「エイヤ」、それしかない。どんな人であっても、人である限りコミュニケーションできないことはない。それに私の場合、情報は文字で知るより、電話で聞いたり窓口係の人に相談したりしたときの方が、よく覚えられるような気がする。

 

19:24 ジョナサン新横浜駅前店

二時間くらい前に、今度は警察署で運転免許証の住所変更をしてきた。感想は、こんな感じなんだなあ、という感じ。以上。とりあえず疲れた。喉が痛くて、少しだるい。ちょっとだけ風邪を引いているんだと思う。 

昼間にあれだけ書いたけど、結局、新しい元号はネットで知った。私にはどうも、異様に生真面目になりすぎるところと、異様にいい加減になりすぎるところがある。大変だなあ、生きるのは。とかっていいながら、ぜんぜんそんなことを思っていなかったりもする。だめだ、帰ってもう寝よう。

 

三月三十一日

23時ころ  自室

もうすぐ平成が終わろうとしている、らしい。明日、新しい年号が発表されて、来月の終わりに平成が終了するとのことだ。誰からも直接そんなことを聞いた覚えはないけれど、数時間ほど前にたまたまツイッターを開いてみたら、そんなようなことをどこかの誰かがつぶやいているのが見えた。きっとそうなのだろうと思う。ニュースも新聞もテレビも見ない生活を送っていると、元号が変わるというこのとても大きな出来事さえ、スマートフォンの小さな画面越しに知ることとなり、いまいち迫力がない。風情もない。

三月二十二日

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15:07 ドトール菊名駅前店

初夏のよう、とまでは言わないにしても、春らしいと言うにはあまりにも暑い一日になった。セーターの袖をまくり、額に滲む汗を手で拭う。駅前は今日も人通りが多かった。

 

ついに今日、転出届を地元の市役所に郵送で送った。後日、受理したとの通知が届けば、こっちの市役所に転入届を出して、保険とか年金とかの手続きを行う流れになる。住所があれば、仕事に就ける。仕事に就けば、金が稼げる。金を稼げば、さて、どうなるのだろう。分からない。しかしもうなんだっていいのだ。やることがないからする、というただそれだけの気持ちだけが自分を動かすこともある。いや、実際、動いたという実感すら乏しい。それがどうして今日だったのか。理由はない。だが理由なんていつもどこにもないのだ(強いて言えば、「とりあえず書類だけは準備しておこう」と思って一週間ほど前にコンビニで免許証のコピーを取ったのだが、たぶん自分がコピー機の中に免許証を忘れたらしいということに、昨日の深夜に気が付いて、駅前のコンビニを五、六軒冷や汗を流しながら巡って交番にも行って、駅前のファミマでついに見つけた、、、その勢いそのままに、そのすぐ近くの郵便局へ入ったのだった)。

郵便局に入ると、カウンター越しに女性の郵便局員さんと目が合った。「この封筒に合う切手を買いたいのですが」と尋ねると、私が手に持っていた封筒を見て、「封筒はこのままお預かりして、こちらで郵送してしまってよろしいですか」と訊き返される。私が「あ、はい」と答えると「かしこまりました」と告げてレジを打ち、受付に設置されていた画面に「120円」と表示が映った。あ、そうか、大型の茶封筒はやっぱり切手の値段が違ったんだと思って財布から百円玉一枚と十円玉二枚を取り出して受付のテーブルに置く。するとすぐに、10センチほど離れた場所にブルーの小銭入れが差し出されていたことに気が付いて、そこにお金を入れ直す。「ありがとうございました」と私。「ありがとうございました」と女性。これで今日の仕事は終わりだ。レジの上に雑然と置かれたあの茶封筒は、これから私の故郷へ向かう。

こうして、ここ数週間ほど、いや、ここ二年ほど私の頭の片隅でくすぶり続けていた課題への取り組みが、今日を以っていよいよ本格的に口火を切ることとなった。呆れるほど実感がない。一連の行為に意味がないとは思わないが、人間の血の通わない、単なる事実の確認だけがそこにあるような気がした。それが社会。それが社会の中で生きるということなのか。

社会とは一体なんだろう。市役所、郵便局、警察署、飲食店街やコンビニ、目の前に見える、駅出入り口を行き来する人たち。私がいた、という事実さえ、彼らは決して知ることがない。彼らのことを私が何も知らないように。

 

 

 

 

ということで、これからの動きをおさらいしておく。

⑴ 郵送で転出届を地元市役所に提出する

⑵ 地元市役所から返答が届く

⑶ こちらの市役所に転入届を提出する

⑷ その他の書類?(年金?印鑑登録?)もこちらの市役所で手続きする

⑸ 免許証?とか郵便局?とか各種重要機関?に登録されている住所変更を行う

以上だ。とりあえず、数日後には新発田市役所から、なんらかの返答が届くはずだ。それを元にまたひとつ行動を起こす。

ひとつひとつ、だ。ひとつひとつ。「やらなければならないこと」は、数珠繋ぎのように次から次へと迫ってくる。でも、今ここで焦っていきなり自分を変えようとかなんとかって思う必要はない。案ずるより産むが易し。例えるならば、これは銭湯で熱い湯に自分の身体を馴染ませていくようなものに近い。勢いが要るのは、これまで浸かっていた湯から出るときと、新しい湯へ入るときだけ。入ってからはただ一秒一秒を噛み締めるのみだ。

 

 

 

 

ふと、二十歳くらいの頃のことを思い出す。

ある日、私はネットで見つけた社会人の卓球サークルに連絡を取って、見学の申し込みのメールを送ったことがあった。

大学に入ったはいいものの、友達がいない。大学構内で声を掛けられる部活やサークルの雰囲気に馴染める気がしなかったし、授業等で頻繁に顔を合わせる同級生たちとも仲良くなれそうになかった。

たとえば、くだらない例だけれど、彼らは、いわゆる「新入生歓迎会」のことを当たり前のように「新歓」と略して呼んだ。二回生以降が使うならまだわかる。だが、新入生がなぜ使うのか。昨日まで知らなかったはずの言葉をどうして口にできるのか。私は彼らの使う言葉の端々に「とりあえず与えられた環境に早く順応したい」というだけの浅はかな魂胆を透かし見て、勝手に気分が悪くなった。部員募集のチラシが飛び交う構内をひとりで歩いて、何もなければすぐにアパートへ帰った。近くのスーパーで肉ともやしを買って炒めて食べた。コタツに入ってテレビを見た。そして夜になり、ベッドに寝転び天井を眺めた。孤独だった。

結局、そのような日々はそれから何年も続くことになったわけだけど、入学当初はともかくひとりになってしまうのが怖くて、ある日、「どうにかして人と接しなければ」と焦って、ネットで見つけた社会人の卓球サークルに勇気を出して連絡を取ったのだった。

ある日の夕方、最寄り駅から二十分くらい進んだところで電車を降り、見知らぬ住宅街を抜けて、知らない小学校の体育館へ向かっていった。仕事を終えた社会人が十数名ほど集まって、当たり障りのない話をしながら卓球に汗を流している。私は代表と思しき男性に挨拶をして、自分がメールで見学を申し込んだ者だと告げた。それから練習に加わる。愛想笑いをしながら、適当な会話をするなどした。終わってみれば、呆気ない数時間だった。ほとんど印象に残っていない。

解散するときに、女性参加者の一人が「旅行に行ってきたので」とかって言いながらサークルのメンバー全員に手土産のクッキーを渡していた姿だけはよく覚えている。それは、人付き合いということについてそれまで私が知っていたものとは明らかに異質な光景だった。これが、社会か、と思った。

うまくやれたかどうかは、わからない。しかし、ともかくやるだけのことはやった。ひとりで決めて、ひとりで終えた。ともかくそのことだけが嬉しかった。

体育館から駅までの帰り道、辺りはもう真っ暗になっていて、道端の自動販売機だけが場違いにまぶしく光っていた。そばによると、隣には錆びてぼろぼろになったベンチが取り残されたように置かれていた。私は自動販売機でレモンスカッシュかなんだったかを買って、ベンチに座ってひとりで飲んだ。そのときの、なんともいえない、よい気持ち。それを久しぶりに思い出した。

 

今がそんなような気持ちなのかといえば、そうでもないけれど、ともかく、今まで小さなことをひとつずつ乗り越えてきた自分自身というものに誇りを持ちたいと思う。ちなみに、そのサークルには二度と足を運ぶことはなかった。

 

菊名にて

17時14分 ドトール菊名駅前店

一時間くらい前に、少しひとりになりたくて近くの図書館へ足を伸ばしたのだが、席に着いた途端、あっという間に閉館になってしまった。日曜日は五時に閉館なのだそうだ。菊名にはもう一年半近く住んでいる。この図書館にも、もうかなり通っているのだから、休日の閉館時刻なんて基礎的な情報くらい把握していたって良さそうなものだが、やはり、覚える気のないことはいつまで経っても身に付かないようだ。

行く場所はどこにもない。かといって、道端で呆然と突っ立っているわけにもいかない。こういうとき、私は滞在先の最寄り駅前にあるチェーン店のカフェによく足を運ぶ。まずは図書館へ、それがだめならスーパーマーケットのイートインコーナーへ、それでもダメなら駅前のドトールへ。

菊名では、つねに収入の目処が立たない中で暮らしてきた。もとより消費を楽しむような性格でもない。空腹を満たすだけの食料と、退屈を埋め合わせるだけの情報環境があれば、それでとくに不満はなかった。何かを楽しむためでなく、できるだけ何も失わないために金を使う。今日も220円でアイスコーヒーのSサイズを購入し、窓際の右端の席に座った。

休日だからなのか、図書館もカフェもほぼ満席近く席が埋まっている。どちらも客の醸す雰囲気は、あまり良いとは言えない。皆、すぐ隣りに他人が座っているのが馬鹿馬鹿しいくらい自分の世界に没頭していて、他の客や店内の様子をほとんど気にかけていない。そんな風に思う自分だって、彼らと変わりはしないのだろう。

最近、よく、人の醸し出す雰囲気というものについて考える。声、仕草、表情、服装などを通じて、わざわざ会話を交わさなくても、その人が今どのような気持ちで生きているのか、といったようなことは、必ず周囲へ漏れ伝わってしまう。自分のことでいっぱいいっぱいなのか、それとも他者へ気を配る余裕があるのか。自分の世界に閉ざしているのか、それとも外の世界へ開けているのか。簡単に言えば、今、いい感じなのか、そうでないのか。きっとそのようなことを見極める目はどんな人にでもあると思う。

元気でなさそうな人を見て思うけれど、やはりせっかく生きているのなら元気でいる方がいいに決まっている。でも、そうは言っても生きていれば、自分のことで精一杯のときも、自分だけの世界に引きこもりたいときもあるのが当然だ。肝心なのは、そういうときだ。そういうときに、どう振る舞うか。外の世界へもう一度また目を向けるにはどうするか。必ずしも拙速に前を向くことだけが答えではない、と、私は信じたい気持ちがある。

より深く自分の中に潜ること。いたずらに他者と接触せず、あえて抽象的な世界へ遠く思いを馳せること。外からの刺激を遮断して、心がひとつの場所に鎮まっていくのをただ待つこと。