天パ日記について

人間には、最低でも三つの顔がある。一つは社会や世間などの不特定多数の「みんな」に向けて話す顔、もう一つは家族や恋人・友人などの特定少数の「なかま」に向けて話す顔、最後は自分で自分と向き合ったときに現れる顔。

「みんな」の中には多種多様な人が含まれる。当然ながら、自分に対して好意的に思ってくれる「なかま」だけが含まれるわけではない。だから、「みんな」に向けて話すときは「なかま」に向けて話すときよりそれなりに注意を払って話す必要がある。自分を立派に見せようとしたり、信用できない人物だと思われないようにしたり。他人前に出るからには、そのときの自分にできる限りの最高の自分でいようとするし、少なくとも他人前に出して恥ずかしくないような振る舞いをしようと努力する。努力することが求められる。

しかし、そればかりでは疲れてしまう。「みんな」の前では、不特定多数の人からの評価の眼差しに耐えうるだけの「より良い自分」でい続けなければならない。しかし「より良い自分」は、自分の一部でしかない。「みんな」の前で「より良い自分」として振る舞い続けるためには、その他の自分の側面を気兼ねなく解放できる「なかま」の存在が必要だ。「なかま」がいてこそ「みんな」の前で、自分なりに努力した「より良い自分」の姿を保ち続けることができる。

「みんな」を「プロ」、「なかま」を「アマ」と言い換えても良いかもしれない。「仕事」と「趣味」の違いもこの構図に当てはまるかもしれない。「なかま」といるときには通用していたことが「みんな」の前では通じない。そういうことはよく起きる。「みんな」の前に立つときは、自分を好意的に思ってくれる「なかま」だけでなく、どれだけ多様な人々を「みんな」として想定することができるのか、その想像力が問われることになる。誰が見ているかわからない。「みんな」の中に含まれる一人一人は、それぞれどのくらい異なった、それぞれにとって固有な人生を生きているか。自分とは決定的に異なる誰かの人生に対して、どれくらい想いを馳せることができるのか、そこが問われることになる。

 

と、以上は就寝前の思い付きで書いた単なるメモ書きに過ぎないのだけど、最近の私が考えていることを割とまとめられたような気がして、少し嬉しい。そして、この前提があって初めて私は、いまの私が本当に言いたかったことを書き始めることができる。

私が言いたいのは、この天パ日記は、「みんな」に向けられたものでも、「なかま」に向けられたものでもないという話だ。最近になって、現実世界で当ブログの存在が話題に上ることがなんだか少し増えてきた。しかし私はこの場所を、不特定多数の人たちに向けて、他人前に出しても恥ずかしくないような「完成品としての文章」を発表する場にしたいとは思っていないし、自分を(基本的には)好意的に受け入れてくれそうな特定少数の人たちに向かって、ある種傷口を舐め合うような、互いに互いが「なかま」であることを再確認し合うような、馴れ合いの場にもしたくない。

私がやりたいのは、冒頭に書いた三つ目の顔、自分が自分と向き合っているときの感覚のまま好き勝手に書いた文章を、誰かが読もうと思えば読める場所にこっそりと置いておきたい、ということになる。だから、別に読んでくれてもいいのだけれど、誰かに読んでほしいがために書いているわけでは全くない。ほんとに全くない。これから私がいつか「誰かに自分の書いた文章を読んでほしい」と思ったときは、ちゃんとツイッターとかにリンクを貼るし、それなりのクオリティになるようにちゃんと推敲に推敲を重ねるから、この日記に関しては別に無理して読んでくれなくてもいいし、そんなに読んでほしくもない。公開しておいてこんなことを言うのもアレなんだけど、その辺りを勘違いしてほしくない。

この日記に関しては、自分と対話し続けるというスタンスを徹底したかったから、こういうメタレベルの話をするのは今まで控えていた。でも最近、ちょっとその辺りの暗黙の了解みたいなものが崩れてきて、たいして親しくもない人から「ブログ読んでますよ!」と変なアピールをされることが増えてきた。私としては、別に他人に読まれても構わないのだけど、読んでくれているからといって特別嬉しいということはない。むしろ自分と一対一になって、小っ恥ずかしいことでもそれなりに最後まで真剣に書き殴ってぶちまけてやろうという気概が、削がれる。ここは私が私と一対一になりながらナイーブな個人的感情を吐露するだけのゴミ箱のような場所なので、そっとしておいてほしい。

 

でも、そうも言ってられないのだろうか。読んでくれて嬉しい、と思うときもないわけじゃないし。やはり結局は、読んでくれている人が誰なのか、ということなのだろう。よくわからない人に読まれてもよくわからない気持ちにしかならない。しかしいつまでも、こんなことばかりやっていられないかもしれない。もう少し読み手を意識した、ちゃんとまとまった文章を書かなければいけないのかもしれない。

 

そんな折、ツイッターで下のような記事を見つけた。

すごくよくわかる。おれが目指しているのはこういうことだったのだ。見栄にまみれた文章や、価値のある情報をまとめた役に立つ内容の記事なんて、読みたくない。この世界で自分がたった一人になったかような気分に浸った文章が読みたいし、書きたい。誰かに向けられた文章ほどつまらないものはない。「みんな」に向けた文章は、見栄が混じる。「なかま」に向けられた文章には同調圧力を感じる。背伸びした自分を見せようとするのか、それともあえて露悪的に振る舞うのか、いずれにせよ、自分に対する相手からの印象をコントロールしようとする、その浅ましさ。そうしたものを振り切って、せめて文章の中にいるときくらい、たった一人になっていたい。一人になって、同じように一人になった誰かの心に届けばいい。届かなくてもそれでいい。