四月二十四日

19:19 ガスト大倉山駅前店

昨日、秋葉原でついに新しいスマホを買った。何かを買う、というのも、私にとってみれば、たいへんな大事業だ。予算、デザイン、契約会社、スペック…。考えれば考えるほど考慮すべき事項は数え切れないほど出てくる。どんな携帯を買うべきか。どんな携帯が欲しいのか。そもそも私は欲しいと思っているのか。それはどうしても必要なものなのか。湧き上がる問いは止むことなく続く。情報に溢れるインターネットが、それをまた加速していく。

そもそも、という問いが生まれた時点で不幸は始まる。その問いには終わりがない。延々と連鎖していく問いに引きずり回されているうちに、いつしか「私にとって携帯とはなんなのか」という根本的なところまで考えはじめている自分がいる。その時にはもう、スマホを買い直す、というたったそれだけの行為が、自分の人生やライフスタイルの全体を大きく左右するようなもののように思えてきて、そんな重大な選択を前に、間違っても下手な判断を打つことはできないような気がしてくる。攻めるのか、置きに行くのか。引くのか、引かないのか。瞬間瞬間に浮かんでくる無限に近い可能性の中から、たった一つの現実的な解を絞り込む。大変な難事業だ。しかし、自分から動かなければ、自分から対象へ迫っていかなければ、永遠に事態に決着は付かない。

スマホ購入に際して、私はどんな思考のプロセスを辿ったのだろう。今後のために、その過程を今一度反芻してみよう、と思ったのだが、考えてみればあまりにも錯綜としていて、とてもではないが一本の筋にまとめられそうにない。意思決定の過程で、私は四方八方に思考を散らしている。どんなスマホを買おうかと考えているうちはまだ甘い。スマホという枠が選択肢を有限に規定してくれているから。しかし、「そもそも私はスマホを欲しいと思っているのか」という問いが浮かんだ時点で状況は一変し、考えうる選択肢は膨大な数に増加する。「スマホ」という枠を突き破ると、そこには「携帯」というより広い枠がある。その中には「ガラケー」や「フィーチャーフォン」なども含まれていて、そうなると、必ずしも「スマホ」の中から解を見つけなくても良いのではないかと思えてくる。さらに「携帯」という枠を突き破ると、そのさらに向こうには「買う」という枠があり、今までの話がそもそも「買う」という前提で進んでいたことが分かってくる。しかし当然だが、その隣には「買わない」という選択肢もあり、それがちらつき始めると、「スマホ」の中から何か一つを選ぼうと思っていた頃の自分の気持ちが最早かなり萎えつつあるのに気付きはじめる。

買わなくてもいいのに、買う。やらなくていいのに、やる。何かを選択するときに、考えずに身体が勝手に動いた、もしくは、考えた末にしようと思っていたことを止めた、というのは、話としてはよくあることだと思う。

しかし、それに比べて、考えに考えた末に、やる、という選択を取る、という話はなかなか聞かないし、実際にそうするのはかなり大変だ。やらなくていいと分かっているのに、やらないことの価値や意味や必然性を十分に分かっているのに、あえてやる。そこにはもう、最初の頃のノリや勢いや熱量はない。しかし、ひとの選択や行動の背景に、いつもいつも衝動や感情が燃えているわけでもなく、理性的に抑制された中で判断を下すのが悪いことであるはずもない。考えに考える。そのことによって、たとえ前のめりに進んでいく勢いは殺されたとしても、一度立ち止まってみたことで、より深くそのことの意義や価値を噛み締められる、という側面もある。大ナタを振るって力任せに敵をなぎ倒すのではなく、徹底的に相手を観察して、狙いすまして急所を突く。そういうやり方があってもいいし、そういう生き方があってもいい。

 

20:26 同上

というわけで前置きが非常に長くなったが、約三日掛けて入念に下調べをした結果、私はようやく新しいスマホを無事に購入することができた。今はそのスマホから日記を更新している。

結局、私はどんなスマホを買ったのか。結論から言うと、iPhone SE(16GB)のグレーを買った。値段は16000円弱。新しいスマホ、と、さっきから書いているけれど、数年前に発売されたモデルの中古品だ。精密機械を中古で買うのってどうなんだろう、という先入観が今まではあったのだが、今のところ支障なく使えている。最新機種ではないし、せっかく買い替えた割にスペックが良くなっているわけでもないけれど、サイズが今までのものより一回り小さく、色が黒とグレーで渋くて格好いいのが気に入っている。この小ささと色が、購入の決め手になった。

最近のスマホは、片手で指が届かないくらい画面が大きいのがトレンドらしい。たしかに大きい方が写真も動画もよく映える。高いスペックを生かしてパソコン並みの作業を手元で行うときも、大画面の方がやりやすいだろう。しかし、私にそれは必要だろうか。自分にとってスマホとはそんなものだっただろうか。

ていうか、そもそもスマホでなくてもいいのではないか。スマホが壊れてからすぐに、私は、これを機に高校卒業とともに約八年ほど使い続けてきたiPhoneを卒業して「ガラケー」ないし「フィーチャーフォン」に乗り換えても良いのではないかという思いがよぎって真剣に考えた。ここのところ数年間、人生の何もかもをスマホに支配されているような気がして、少しウンザリしていた。現代では、世界中のほとんどの人がスマホを持っている。電車の中で、誰もがスマホを覗き込んでいる姿はあまりに画一的で異様だと感じる。

もちろん、そのように感じる人は私ばかりでない。欧州などでは近年、スマホ以外の端末が少しずつ人気を集めているらしい。Nokiaが売り上げを伸ばしている、との記事を読んだ。ガラケーでかつて栄華を誇ったNokiaは、ここ十数年の全世界的なスマホブームの潮流の中ですっかり影を落としていた。しかし昨今のミニマリズムの流れを受けて、最小限の機能しかない旧来型の端末を見直す向きが若者を中心に増えているらしい。

日本でも昨年、ドコモがNichephoneなるカード型極小モデルを発表して、世間の耳目を集めた。電話とテザリング機能しかほぼ使えないそれを実際に購入した人がどれだけいるかは分からないが、これだけスマホが人口に膾炙し、インターネットが人々の生活に与える影響の功罪が語られるようになった今、「スマホ離れ」の流れは一部で確実に来ていると言ってもいいだろう。

というか、むしろ、開発者側はそうした市場のニーズを取りこぼしているとさえ私は思っている。スマホブームの発端となった本家iPhoneは、いくらバージョンアップを重ねても、もはやかつてのようなインパクトのある新鮮さを提供できず、細かな意匠を変えたりいたずらにスペックを向上させたりするだけになってしまった。必要な機能は数年前のモデルで十分に事足りる。むしろ機種によっては、かつての方が使いやすいと感じることさえあるくらいだ。

しかし、なぜかそんなiPhoneに追随するかのように、Apple以外の企業もそれとほとんど同じようなモデルを店頭に陳列させている。どれも画面が全面化し、高性能なカメラを売りにしている。しかし、はたして人々は本当にそれを求めているのだろうか。機能性はあっても、そこにはもうかつてのような革新性はない。

みたいなことを考えて、ガラケーでもいいなあと思ってギリギリまで悩んだ。

 

更新中