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カウンセリング

ドアをノックする姉の声で目を覚ます。今日はカウンセリングを受ける予定の日だった。リビングに向かい、父の作った料理を食べ、服を着替えて歯を磨く。荷物をリュックサックに詰めたら、父に言われるがまま父の車に乗り、運転席に座って病院に向かう。入り口まで来たら車を止めて、父から診察費を受け取る。受付を済ませて診察を待ち、番号を呼ばれて部屋に入る。

このすべては、自分で決めて自分で選んだことなのだろうか。「どんな仕事が向いているのか」という話に始まり、「そもそも働きたくない」「それ以前にやりたいことがわからない」「もっと言えば何で生きているのかわからない」というような取り止めもないことを1時間ほど臨床心理士の方と話した後、すぐに行かなくなるんだろうなと思いながら、次のカウンセリングの日程を決めた。自分から働きかけなければ、ただなんとなく過ぎていってしまうだけの日々の中に、私は「コレだ!」という確かな手応えのようなものを求めているのかもしれない。これからどうやって生きていけばいいのか。何のために生きているのか。誰も答えを教えてくれない。自分で決めるしかない。でも、自分ってなんだ。

久しぶりに体重を測ると、85㎏を少し越えていた。子どもの頃に見た巨漢の父の体重もたしかそのくらいだったから、さすがに太ったなあと思う。言葉の中に答えを探すと、どこまでも再現なく考え続けられてしまう。太っているのなら太っていればよく、それが恥ずかしいともみっともないとも思わないけれど、全身を包むこの気怠さがもしも身体的な影響によるものなら、もう少し意識的に身体を動かすようにしてみても良いかもしれないと思った。

それにしても眠い。コーヒーでも買おうか。一昨日まったく眠れなかったということもあり、昨日は夕方頃までぐっすり寝させてもらったけれど、案の定というかなんというか、おかげで昨夜は眠れなかった。それに、WiFiが使い放題だからといって一日中家の中でパソコン作業をしていると、さすがにやっぱりダレてくる。

番号を呼ばれ、診察に向かう。次は精神科の先生。「具合はどうか?」という紋切り型の質問から始まり、発達障害の可能性は否定できないという話と、もし困っているようであればお薬でも、という話。先生から「お父さんから聞いたけど、最近パソコンを落っことしたんだって?」と聞かれて、ああ、父はまだこのブログを読んでいるんだなあ、と、なんとも言えない気分になった。父とそんな話をした覚えはない。私が部屋の照明を消さないことだとか、片付けが苦手なこと、きちんとドアを閉めないことなども、父から精神科の先生に不注意症状の疑いとして話が行っていたようだったので、「いや、父も父で過剰に神経質なところがあるのでなんとも言えないですよ」とだけチクっておいた。この意味のない、空虚な時間はなんだろう。こういうとき、私は思わず笑ってしまう。

 

(更新中)

たこ焼き

結局、まったく眠ることなく朝を迎えてしまったため、どうしようもない気分で朝ごはんを食べる会に参加することになった。他人と会うときはそれなりにコンディションを整えておかないと、やはりマズイことになる。会を終えた後、新潟駅に着いてから駅の地下にあるいつもよく行くうどん屋で冷やしたぬきうどんを食べて、しばらくベンチに腰掛けながらぼーっと通り過ぎていく人の群れを眺めていた。眠気のせいか、なにもかもが灰色に見える。我慢しようかな、と思ったけれど、色々なことがやるせなくなってきたので、思わず銀だこでたこ焼きを注文。また同じベンチに腰掛けてぼんやりと時間を潰す。それから電車に乗り、新発田駅へ。今は図書館でブログを更新している。

ベンチでたこ焼きをつまみながら、華やかな服装に身を包んで楽しそうに街へと繰り出す女の子たちを眺めていると、ああ、なんかおれ、何やってるんだろうな、みたいな気分になってくる。眠気のせいで頭がぼんやりと重く、考え事を始めるとどんどん暗い方に思考が流れ込んでいく。いかん。とりあえず、今すぐ横になりたい。

(更新中)

グーグルで軽くエゴサーチをしてみたら、去年書いていたブログの文章とかもう消したはずの昔のツイッターのつぶやきとかがちらほら現れて来て、なんかもう、胸の辺りがえぐり取られるような気分になった。付き合いのある学生時代の友達はもう全くいなくなってしまったけれど、彼らがもし何かの拍子で私を思い出し、検索にでもかけてみたら、果たして今の私を見てどう思うだろうか。もちろん、わかっている。大半の同級生たちは「そんなヤツいたっけ?」みたいな感じで、私のことなんか全然気に留めていないだろうということは。というよりそんな風にいちいちどうでもいいことを気にしてしまう自分自身を克服したくて、わざわざ実名で文章を書いているようなところがあるのだから、その程度の苦痛くらい承知の上なのだ。腹を括らなければ。他者からの冷徹な評価の視線に切り刻まれる覚悟を決めよう。

表現するという行為は、大前提として恥ずかしいものだと思う。恥ずかしいけれど、その恥ずかしさを乗り越えて自分を出すからこそ、その先に待つ、もうそれが大丈夫になった自分自身に変わることができる。街中を歩くときでさえ他人の視線を気にして鼻歌を歌うことすらできなかった私が、今や、である。自分をさらけ出した分だけ、自由に立ち回れる領域が増えていく。どうしたって野暮ったくなるのは仕方がないのだから、今は質より量を出さなければ。

と、いうようなどうでもいいことを書いていたら夜が更けてきた。今日は明日早朝の予定に備えて、新潟市の漫画喫茶にて前泊である。明朝6時、内野駅に向かう。

 

午前3時になった。夕飯に食べた唐揚げが今になって胃もたれを起こし、眠気はあるもののまったく休まることができない。このままグダグダな感じで朝を迎えるのだろうか。ああ。

ノリ

まだ中学校に上がる前のことだったと思う。同じ学区内にいつも一緒に登下校していた何人かの友達がいた。彼らとは学校でもよく話をしたし、家で一緒に遊んだこともあったのだけれど、「通学路が一緒だから」という理由で誰が誘うでもなく集まって、いつも一緒に話をしながら歩く登下校の道が、私は好きだった。クラブ活動にも所属せず、わざわざ放課後に誘ってまで一緒に遊ぶ友達もいなかった私にとっては、ずっと子どもの頃からの幼馴染でいつも同じメンバーが顔を合わせる登下校の道は、家とも学校とも違う特別な場所だった。小学生も高学年になると、少しずつ異性を気にし始めたり、学校での微妙な人間関係のバランスに神経を尖らせたりと、単に「仲良し」とか「友達」とかいう言葉では括りきれない人との付き合い方を意識するようになってくる。彼らとも、学年が上がるにつれて疎遠になり、中学生も半ばを過ぎる頃にはさすがに一緒に登下校することも少なくなってきたけれども、それでも学校で顔を合わせたときには、お互いが、それぞれの教室内でのポジションとはまた違ったノリを共有している感じがあって、私はなんとなく嬉しかった。そこでする好きなお笑い番組の話や下らない悪戯なんかが、私は好きだった。まだ、人が人を好きになることとか、誰かを仲間外れにすることとか、何も知らなかった頃の話だ。

この前、登壇したトークイベントの動画を見返していたら、一緒に登下校していた友達と下らない話をしながら歩いていたその頃の気持ちが蘇ってきた。どうでもいいような話ではあったのだけど、子どもながらにちゃんと面白いか面白くないかの基準があって、そこには単に雑談をするだけではない厳密な笑いの作法があった。私はその場で面白いと思ってもらうためなら、割と本気で体を張って笑いを取りに行っていたし、日頃テレビを観て面白いと思うことがあったら、今度会ったときに話してやろうとあらかじめネタを仕込んだりしていた。もちろん、今思い出せば「寒い」としか思えない恥ずかしいネタも多かったし、「面白いから」という、ある種残酷なただのその場のノリだけで、誰かを傷付けてしまったり自分が傷付いたりしたこともあったから、所詮は素人のお遊びに過ぎなかったと思う。けれど、少なくとも私はそこで、笑いというものはそれ相応の努力をしなければ生み出せないものであるという、とても大切なことを学んでいった感じがあった。なにより居心地が良かった。

思春期以降、他人の視線を気にすることで、私は少しずつ暗くなっていった。学校には学校のノリがあって、家庭には家庭のノリがあったから、それぞれの場所でうまくやるには誰か他の人たちの生み出すノリに合わせなければならなかったからだった。部活に入るようになると、いつも一緒に登下校していたメンバーとも、一層顔を合わせることが少なくなった。というより、顔を合わせても以前と同じようには話せなくなり始めていたと思う。学校内には自然と似たもの同士が集まるようにグループが出来上がっていて、そのグループの垣根を超えて話をするということが徐々に難しくなってきていた。野球部に入っている人は野球部員らしくなっていくし、サッカー部に入っている人はサッカー部員らしくなっていく。サッカー部の華やかさに憧れながら、「どうせおれは…」と思いつつ卓球部に入ることにした私も、他の人から見れば卓球部員らしくなっていたのかもしれない。学校内の権力構造で頂点の位置に君臨していたバスケ部員たちのあの悠然とした佇まいには、同性として「おれもあんな風になれたらな」と思わせるような格好良さを感じないわけではなかったけれども、所詮は生まれた星が違ったのだと諦めるより他に仕方がなかった。それ以降、私は自分の居るべき場所を見つけられず、今に至るのだった。

無題

昨日から父が留守だと聞きつけて、久しぶりに祖父母の家を離れて、いつもは父が一人で住んでいる方の実家で過ごしている。が、昼寝をしたらもう夜の10時になってしまった。ここは、当然のようにWiFiもバッチリ完備されているので、布団に潜りながら思う存分ネットを使うには最高の場所なんだけど、おかげで外出しようという気が起きなくて、ひたすら屋内でダラっとした一日を過ごしてしまいやすいというデメリットがある。腹が減ってきたので、昨日買った食パンを二つトースターで焼いて、ジャムとツナマヨネーズを塗って食べた。それから、まだ腹が空いていたので、湯を沸かしてカップ麺に注ぎ、冷蔵庫に余っていた絹ごし豆腐に麺つゆをかけて食べた。

ヒマなのでテレビを付けてみる。名探偵コナンの映画が終わろうとしていた。コナンが倒壊しかかっている建物の中からサッカーボールでヘリコプターを狙っている。そばにいるスナイパーに射撃の隙を作ろうという魂胆らしい。ヘリコプターには犯人と思しき人物が乗っていて、不敵な笑い声を上げながら銃でコナンたちを狙っている。無茶だなあ、と思いながら、私はチャンネルを変えた。卓球の平野選手が世界女王を倒したらしい。ある長身の水泳選手が日本新記録を更新したらしい。私はテレビを消した。皿を洗って、自分の部屋に戻った。

本を読む気にもならないし、パソコンを開く気にもならないし、DVDを借りてくる気にもならないし、部屋を片付ける気にもならないし、散歩に出掛ける気にもならないし、ゲームをする気にもならないし、絵を書く気にもならないから、ブログを開いて、文章を書くことにした。そろそろ皆、眠りにつく頃だろうか。今日は何があったのだろう。どんな靴下を履いて、どんな昼食を食べて、どんな話をして笑い、どんなことを思い浮かべて眠りにつくのだろう。今日も一日が終わっていく。私は今日、とくに何も記憶に残ることのない、きっと後から思い出すこともない、何の変化も喜びもない、ただの一日を過ごした。これを読む人はどんな一日を過ごしたのだろう。

耳を澄ますと、部屋には蛍光灯のビーンという音が響いている。座禅をするときは聴覚に意識を集中させると良いらしいということをふと思い出した。こういうヒマなとき、どんなことをしたら楽しいのだろう、とちょっとだけ考えてみると、一度観たことのある、おじいさんが水没していく街に一人で住んでいるという短編映画のことを思い出して、ああなんか、ああいう雰囲気の作品とかってやっぱりいいよな、と思っていたら、眠くなってきた。寝る前にコンビニまで散歩して、久しぶりにお酒を飲むのもいいかもな、と少し思った。

父性・母性

近々、姉が出産を迎えるらしい。新潟でいつもお世話になっている方も先日お子さんが産まれたそうで、最近はなんだか私の周りでおめでたい話が相次いでいる。こうなってくると、私も自然に「親になるってどういうことなんだろう」「自分に子どもができたらどうするんだろう」というようなことを考えずにはいられない。まだまだ子どもだなあ、なんて思いながら今日まで23年間生きてきて、今年で24歳になるわけだけど、よく考えてみれば、とっくにもう親になってもおかしくない年齢になっていたのだった。人生は、始めようとなんて思わなくも、もうずっと前から勝手に始まってしまっていて、そして、知らない間にどんどん先へと進んでいく。何もしなくても勝手に進んでいってしまうこの人生を、どうにかして自分の手に収めるために、私は改めて自分で自分の人生を始めていかなければならない。どのような自分でありたいのか。子となる人に対して、どのような生き様を見せるのか。父とは何か、母とは何か、家族とは何か、どのような働き方・暮らし方が望ましいのか。自分一人だけの人生であったのならまだしも、いつか自分が大切だと思う人と関わりながら共に生きていくのだということを考えれば、やはり今のような生き方ではマズいのではないかという思いが胸の底から湧いてくる。

父性とは何か、母性とは何か、ということを最近よく考える。おそらく以前、何かの心理学の本を読んでぼんやりと記憶している内容だと思うのだけど、自分と他者というものがあったとき、母性の役割とは繋がること(両者が同じ存在であることを強調すること)、父性の役割とは繋がりを断つこと(両者が違う存在であることを強調すること)なのではないかと思っている。家族というものが一つの集団である限り、どこかで必ずウチとソトを分ける基準が必要になってくる。つまり、ある一人の人に対して「お前は仲間だけどお前は仲間じゃない」という判断を下さなければならない局面が必ずある。その判断を下すのが、父性だと思う。それがなければきっと集団が集団であるということの意味を失ってしまう。逆に母性的な感性とは、その辺をうまくぼかすというか、まあいいじゃないですか別にという感じで良い意味でなあなあにするという機能があるように思う。ちなみに男であっても母性的な人もいるだろうし、女であっても父性的な人もいると思うので、「生物学的に男/女だからどう」という話をここでしたいわけではない。私なんかは割合に母性的なところが強いタイプの男なんじゃないかと自分で勝手に思っている。単に、優柔不断というだけのことかもしれないけれど。

ここまで書いたら、エニエスロビーでルフィとウソップが決闘をしたときに、ルフィがウソップを殴り倒したあとで、ゾロに「重い…」とだけぽつりと呟いた場面が頭に浮かんできた。ゾロは「それが船長(キャプテン)だろ。お前がフラフラしてやがったら、おれたちはどうりゃいいんだ」みたいなバシッとしたことを言って、それからルフィは声を出さないようにして泣くのだけど、ああ、あのシーンはとても良かったなあとしみじみ思う。ていうか今でこそポピュラーになりすぎてちょっと距離感ができてしまった感じがあるけど、なんだかんだ幼少期から思春期まで漫画と言えばワンピースしか読んでこなかった人生を送ってきたから、こうやって考え事をしているときにふと思い浮かんでくるのはやっぱりワンピースなんだなあ。その後、ウソップが仲直りをしたがっているという話を人伝てに耳にしたルフィが「じゃあさっさとウソップを連れてこよう」みたいなことを言うのだけど、ゾロが「ちょっと待った」みたいな感じで制止して「一度完全に仲間でなくなった人間をもう一度仲間に入れるのであればそれなりにケジメを付けるべき」みたいな感じのことをバシッと言う。あれとかもまさにゾロは父性的だなあという感じがする。ケジメを付けるという場面はいつか必ずどこかで必要になる。私も、そろそろだなという気がしている。

具体・抽象

久しぶりに文章を書いたら、頭が疲れてきた。こめかみの辺りがジンジンと熱く、重くなり、触ると脈を打っているのが分かる。一人でいると再現なく考え続けてしまうから、やはり私は定期的に他人と話す機会を作った方が良いのだろう。自分の頭の中でだけ考えているとすぐに容量がいっぱいになって、それ以外のことが手に付かなくなってしまう。

東京滞在中、私は参加するだけだったはずのトークイベントになぜか登壇することになったのだが、どういうわけか、二、三十名の人を前にしても自分がピクリとも緊張していないことに驚いてしまった。なんなら、聴衆一人ひとりの目を見つめられるほどの余裕さえあった。登壇している人たちとの間に関係が積み重なり、それなりにどのような会話が展開するのか予想できるようになってきたということもあるだろうけど、それにしても、今になって振り返れば不思議なほど平常心だった。どういうわけだろう。

そういえば、最近は初対面の人と会ってもほとんど緊張しなくなってきた。初めて会う人や親しいのか親しくないのか微妙な距離感の人に対して、昔だったらちゃんと自己紹介しようとしたり、なんとか会話を繋げようとしたりしたのだろうけど、そういうことを無理にしなくなってから、自然と自分がどんな風に振る舞えば気分良くその場にいられるのか、分かってきた感じがある。究極的に言えば、自分が心地良い時間を過ごせればそれでいい。話したくないときは話さなければよく、話したいときにだけ話せばいい。「こんなことを話してもどうせ友達になんてなれないのにな」と思うことは無理に話さなくてもいいし、そんなことを話すくらいだったら、黙って水を飲んだり飴を舐めたりしていた方が充実した時間を過ごすことができる。どんな場面でも応用可能かどうかは知らないけど、面接とか葬式とか、そういう本当にちゃんとしなきゃいけない場面以外では、なるべく自分自身が一番ラクでいられるように振る舞いたいと思う。

そういえば、先日受けた心理検査に「抽象的な思考が得意」という分析があって、腑に落ちたことがあった。たしかに結果を見ると、語彙力や抽象的な思考能力を表す項目の数値だけが異様に高かった。受けたテストは、提示された用語を自分なりに噛み砕いて改めて言葉にし直すというもので、例えば「『うららか』はどういう意味ですか?」「『森羅万象』はどういう意味ですか?」というような質問をされた。答えに窮するようなものもたくさんあったけれど、ふしぎとテストを受けていて楽しかったのを覚えている。それは、今になって思えば、似たようなことを私が日常的にしているからかもしれなかった。

私は他人と会話していて、相手の話していることを一発で理解することができないことがたくさんある。何か質問をされたときに、相手の言葉の使い方が自分と違うために、「それってこういう意味ですか?」「それは言い換えるとこういうことですか?」という質問を投げかけなければ、相手の言わんとしていることが理解できず、会話が続けられなくなる。私にはどうも、言語というものはそもそも単語と意味が一対一対応している(一義的に決定されている)わけではなく人によって使い方も違えば指し示そうとする内容も違うのではないかというような感覚があるとでも言えばいいのか、注意深く相手の言葉の使い方を吟味しないと相手と自分のイメージする価値観のズレがどんどん大きくなってしまうから、ついつい相手の話の腰を折るような質問が増えてしまう、みたいなところがある。この辺りのことは、まだ自分でも上手く整理できているわけではないので、関連書籍を読むなどして考察を深めたいところではあるけれど、ともかく、初めから同じ価値観を共有している前提で話が進んでいくようなときは思わず横槍を入れないと話についていけなくなってしまう。そういう傾向があるから、抽象的な思考の項目が延びたのではないかと思う。

人それぞれ、考えていることも感じ方もまるで違う。なのにどうして話をしたり、一緒に笑い合ったりできるのだろう。しかしまあ「お風呂はあったかいね」とか「ご飯はやっぱりおいしいね」とか、そういう超具体的な会話をしているときが一番幸せな感じはあるので、なるべく余計なことを考えないで済む生活を送りたいなあとは思う。なんか上手くまとまらない。