9月9日(木)

今日はユニクロに行ってきた。気持ち三千年ぶりくらいに新しい服を買ったような気がする。とにかくここ何年間も新しい服を買っていなかった。余裕がなかった。

今日はチノパンを買った。買おう買おうと思っていたチノパン。25歳くらいの頃にユニクロで買ってそれから何年も気に入って履き続けていたチノパンがあったのだが、何年か前に破けてしまったのだった。なるべく当時のものに近いチノパンを探して買った。

私は基本的にはオシャレに無頓着なはずなのだが、へんなところにこだわりがあるみたいで、気に入ったらとりあえずそればっかり着てしまう傾向がある。オシャレを楽しむというよりは消耗品を取り替えるような感覚に近い。「これ」というスタイルが固まったらもうそればっかりずっと着ていたい。というわけで、ここ何年も服を買わなくてもそれなりに平気なのだった。

でもこういうスタイルで生きるのは人間としてあんまり良いことではないような気がする。心にオシャレを楽しむ余裕を持っている人の方が人間として素敵だと思うので、できれば私もそちら側に行きたい。これまでは現実的にお金がなくて実現できなかっただけで、生活にゆとりが生まれれば衣服を気にかける余裕も生まれてくる。

衣服を気にかけるというのは、自分が他人にどう見られるのかに意識を向けるということだ。自分のことでいっぱいいっぱいだと、そうはできない。たとえばこうして日記を書いている私はいま自分の思ったことを文章にするのでいっぱいいっぱいで、これを他人が読んだらどう思うかというところにまで意識を向ける余裕がほとんどない。それでも良いと言えば良いのだが、他者に読まれてこそ文章だと思う気持ちもあるので、今の私のやり方では不十分なのだろうという思いはずっとある。とはいえ、自分のために文章を書くということすら、現時点ではぜんぜんできていない。何はともあれ書かなければ始まらない。

思えば今年は何かにつけていっぱいいっぱいの年だった。他人を気にかける余裕がなかった。今になってようやくその状況を脱しつつあるのかもしれない。

私はスマホのリマインダーアプリにやりたいことを思い付いたままリストアップしているのだが、「チノパンを買う」という項目は、書かれてからもう何年も放置されてずっと奥の方に追いやられていた。たった一枚のチノパンを買う余裕すらもう何年も今までの自分になかったのだと思うと、感慨深いものがあった。

やりたいことがあっても、それを達成するための現実的な方法論がなければ、実現できない。簡単に言えばお金だ。やりたいこととお金のバランス。お金の問題は避けて通れない。

しかし、お金はあくまで手段であって目的ではない。目的と手段を取り違えると大変なことになるので、「自分はどういう存在なのか」とか「自分が必要としているものは何なのか」とか、そういう本質的なことを自分に問いかける時間が改めて必要だと思った。九月はそういうことを考える時間を持ちたい。

9月8日(水)

ハリーポッターシリーズの続編というかスピンオフ作品の『ファンタスティックビースト』を何の期待もせずに観たら面白くて良かった。やっぱりこれだけ有名な作品だとエンターテイメントとしての完成度が高くて普通に面白い。魔法のCGエフェクトを見ているだけでも楽しい。何も考えたくないときに何も考えずに楽しめるからいいなあ。それでいてハリーポッターシリーズの登場人物の過去が掘り下げられたりしていて、その辺も面白かった。実在しない人間の過去を遡ることがどうしてこんなに面白いんだろう。実生活に何の関わりもなく何の役にも立たないのに。

九月に入ってから少し時間にゆとりができて、こんな風に映画を観ることもできるようになった。

この間は「エヴァンゲリオン」新劇場版四部作を観た。まあまあ面白かったけど、それほどではなかった。あと昔読んで心に残っていた、いがらしみきおの「i」という漫画を読んだのだけど、これもなんか違った。なんだろう、構えすぎたのかもしれない。どちらも中身に深みがあることで定評のある作品だったのだけど、そのもっと手前のところで感受性がフィットしなかった。具体的には、エヴァンゲリオンに関しては、そもそもおれはロボットの戦闘シーンとか美少女アニメっぽいシーンとか声優の声とか子どもの頃から苦手だったよなと再確認した。いがらしみきおさんの漫画に関しては、絵柄が好みでなかった。作品の中身以前に、表層的なところで引っかかってしまった。

 

ところで私には、漫画でも映画でも小説でもなにか作品を鑑賞するときに、つい何かを「吸収しよう」と身構えてしまうという良くない癖がある。無意識に何かを「得よう」「学ぼう」としてしまって、作品を素直に楽しむことができない。へんに志が高い、というか、肩肘を張ってしまって、純粋に娯楽として楽しめない、というか。

これは私が子どもの頃から本や映画や漫画などの文学作品にあまり触れてこなかったことも原因の一つではないかと思っているのだけど、私にとってそれらを見たり読んだりすることは日常と地続きの自然な行為ではなく、「わざわざ」「あえて」そうしようと思わなければやらないこと、という不自然さというか抵抗感のようなものがある。面白そうな本や映画があっても重い腰を上げないと観る気にならないので、日常的にはユーチューブでくだらない動画を見たりどうでもいいネットの記事を読んで時間を潰してたりしてしまう。疲れているときほど脳に負荷が掛かるものを取り込めない。

面白そうなものほど脳に負荷が掛かる。であれば、コンディションの整ったときに観よう。そう思う。でも、コンディションの整ったときなど待っていても永遠に来ないので、結局くだらないコンテンツに時間を取られて、観るべきものを観れないというジレンマ。だからこそ、日常的に本を読んだり映画を観たりする文化的な感受性の高い人に対して憧れがある。

 

ただ、書いてて思ったのだけど、意外とみんなそんなものなのかもしれない。自分にとって吸収すべき対象の本も、誰かにとっては単なる娯楽なのかもしれないし、その逆に自分がただ楽しむために観ているコンテンツが、違う誰かにとっては脳に負荷が掛かる内容なのかもしれない。

優れた芸術は優れた娯楽でもある、という言葉がふと頭をよぎった。芸術というと高尚なもの、娯楽というと低俗なものという印象があるけれど、どんなに深淵なテーマを扱った芸術作品でもそこに快楽がなかったらそもそも鑑賞する気にならないし、どんなに快楽主義的な娯楽作品でも軽薄な要素ばっかりだったら興味は持続しない。そういうことなんじゃないか。そういうことなんじゃないかと思った。

9月6日(月)

九月に入ったら多少は生活に時間と余裕が生まれるはずだったが、なかなかそうはいかない。おかしい。買い物に行ってから帰宅、夕飯を食べた後、皿を洗ったり洗濯機を回したりしているうちに疲れに耐えきれなくなって、たまらず寝落ちして起きたら0時を回っていた。時間がない。

明日も仕事は午後からだけど、午前中は市の健康診断の予定が入っているから落ち着いて過ごすことができるのは明後日以降になる。どれもたいしたことではないのだが、やらなければならないことがいくつかある。余裕がないと、それらに意識を向けることもできない。

8月31日(火)

ツイッターを見ていたら、「地方で食っていく」というタイトルの記事に同時に二つ出くわして、なんとなく読んでしまった。普段あまりこういうのは見ないのだけど、今日はなんとなく。

一つ目は、都会風の小洒落たパン屋が地方の小さな離島で成功している、とかっていうような話で、いかにも成金風の金髪の若手社長がある著名な起業家と対談していた。成功の秘訣はSNSで、先着100名に無料でパンを配るとかしてネット上で注目を集めたら人が集まってウンタラカンタラみたいなことだった。いまはネットがあるから地方に住んでいる人でも情報感度が高くて、でもそのわりに娯楽が近くにないから、近所におもしろそうな場所ができるとやっぱり人は集まるんだよねー、とかそういう話。

二つ目は、大手企業を脱サラして地方に戻って、地域おこし協力隊になった三十代中盤男性の記事。都会から地方に移住して、家賃や食費などの経費は下がったけれど、自動車の維持費など掛かるものは掛かるとか。月給は二十万。任期は三年。仕事としては空き家や空き地の再利用のために耕作放棄地を開墾して畑にしたりとかいろいろやっているとか、そういう話。

どこかで聞いたような話。メディア上でよく目にする地方というのは、案外こういうイメージなのかもしれない。

否定はしない。ただどちらも、この世界のほんの一部のことを言っているに過ぎないと思った。いずれにせよ今の私には関心がない。じゃあ何に関心があるのかというと、それもよく分からないのだけれど。

 

 

窓を開けると秋の風が入ってくる。

生活が落ち着いてきているのは喜ばしい。でも、このまま自分だけの世界で人生が終わっていくのだろうかと思うときもある。このまま小さくまとまっていくだけなのだろうか。

この数ヶ月はとくに、現実の圧倒的な密度に忙殺されて要らぬことを考える余裕もなかった。夕飯に作ったもやしのナムルに炒りごまをかけながら、四月の私はこのたった数百円の炒りごまを買うことにすら躊躇する経済状況だったのだよな、と感慨に浸っていた。少額とはいえ、定期的に収入が得られることの安心感。正直に言って、今になってようやく人並みになれたような嬉しさを感じるときもある。

 

数年前までの私は、さまざまな意味で不安定だからこそ、変化と刺激に富んだ日々を過ごすことができたと言えるのかもしれない。少数派であることの孤独と、だからこそ得ることのできた自由、それから結束。世間的な価値観とは外れたところで、自分自身がこの世界で生きていくにあたってどうしてもこだわらなければならないものについて考えつづけていた。

白い紙の上に水滴をまき散らしたように世界が広がったけれど、今はもうそのほとんどがよく見えない。こうした経験のいくつかは、自分の生きている場所とはべつに世界があることを教えてくれたけれど、その世界の中で生きるにはどうすればいいのかについては分からなかった。さまざまな世界をショーウインドーを眺めるみたいに外から見ているだけだった。今の私がやっていることは、自分が生きていける小さな場所を広げていくということで、これは今までの私がやろうとしてもできないことだった。

 

 

久しぶりに絵を描きたいなあ。抽象画を描きたい。

甘いものを食べたら塩辛いものを食べたくなるみたいに、サウナに入ったら水風呂に入りたくなるみたいに、日々の具体的な諸事に奔走していたら、この世界の一切合切と何ら関係のない透徹した抽象性のようなものにときどき触れたくなる。人間の生活とか生き死にとか社会の維持や繁栄とか、そういうものをはるか眼下に見下ろすようなレベルで世界を眺めるということをしたくなる。私にとっては絵を描くことが、それになるような気がした。

 

8月29日(日)

夏が終わろうとしている。窓を開けると虫の音がうるさいくらい聞こえる。秋の虫だ。

八月はいろいろあったはずなのだけど、終わってしまえば何だったのかよく分からなかった。とりあえず忙しかった。あと暑かった。あとは意外と雨が多かった印象。そのくらいなもんで、あとはもう何がなんだかよく分からない。

一週間に一日くらいは何もせずにぼーっとする時間が必要だと再認識する。八月はほとんどそれがなかった。自分を取り戻す時間というかそういうものがないと、なんかもう自分が何をやっているのか分からなくなる。一週間に一日だと少ないかもしれない。週一だと身体を休めるのでいっぱいいっぱい。二日か三日くらいないと精神を自由に泳がせるところまでいかない。八月の間はずっと私にしては大変忙しい毎日だったので、今はもう何が何だか分からなくなってしまった。

九月はまたヒマな時間が多くなる予定。最近は涼しくなってきたし、やりたかったことがいろいろとできるような気がする。でも何かをやるより前に、まずは何もやらない時間を確保したい。とりあえずぼーっとしたい。八月はバタバタ大変だったので、九月はゆるくやりたい。とにかくゆるく。

 

そんな折、数日前に、父から「そろそろ車を買わないか」とのオファーがあった。以前からそんなような話はしていたのだが、数日で一気に話が進んで、今日は父が見つけてきた良さげな車を下見しに中古車屋へ行ってきた。なんだかよくわからないうちに父のペースでどんどん話が進んでいく。

父としては好意でいろいろやってくれているのは分かるのだが、ぜんぜん気持ちが追いつかない。贅沢すぎるくらい色々ありがたい話ではあるのだけれど、私としては、今すぐになんとしても欲しいものでもないし、決断を迫られても何と答えていいかわからない。疲れているというのもある。こういうときほど私は他人の話に流されやすくなるのでよくない。

車を買うことに対してどうして自分がそれほど消極的なのか自分でもよく分からない。地方で暮らす以上、車は必須。それは分かっている。でも車を所有するということは、それに合わせて生活スタイルを変えるということでもある。単純にいえば税金や月々のガソリン代や維持管理費などを支払っていくということ。ジリ貧だった今年の春頃に比べたら多少はマシになったけれど、それでもまだ私の生活は不安定で、さまざまな意味で余裕がない。

それ以上に、車を買うということが、いよいよ本格的に地元に根を下ろして生活していくということの一種の象徴のように思えて、それがなんとなく重い。今の私には「地元を抜け出したい」とか「都会で暮らしたい」とかそういう強い気持ちがあるわけではない。でも、自分でもよく分からないうちに自分の人生の方向性が定まっていってしまうのは怖い。自分は何をやりたいのか。自分はどういう人間だったのか。そんなことを考えたって答えは出ないが、それにしても、そういう根本的なところからきちんと悩みもせずに流れで決めてしまうのは避けたい、というような感じと言ったらいいのか。

何はともあれ、一万円の電子ピアノを買うのに躊躇するような私が、数十万円から百万円規模の買い物に頭を悩ませないわけがない。どうせ買うなら死ぬほど悩んでから決めたい。考えなければならないことは山ほどあるが、今の私にその力は残っていない。とにかくぼーっとしたい。

8月10日(火)

ピアノを買うか買わないかギリギリのところで迷う日々を続けている。この日記にも以前書いたが、いま何が欲しいかと尋ねられたら、私は真っ先にキーボードと答える。スピーカー内蔵で、電池駆動も可能。軽量で持ち運びしやすく、いつでもどこでも電源ボタンをワンタッチで始められる手軽さ。しかし、鍵盤のタッチも本物に近く、音色もハイクオリティ。そんな手軽さと品質を兼ね備えたキーボードもしくは電子ピアノはどこかにないものか。最近はそのことばかり考えている。最近の楽しみといったら、それを考えることくらい。

というか、むしろ最近は考えすぎて苦しくなってきている。経験上、考えるのが苦しくなったらもう考えるのをやめて、えいやっと行動したほうがいい。そもそもキーボードは手段でしかなく、目的はピアノを弾くことなのだから、手前のところで考えていても仕方がない。

先日、中古屋であるキーボードを見つけた。YAMAHAのpiaggeroシリーズ NP-12b。店頭で最初に見かけたときにグッとくるものがあった。私がずっと探していたキーボードはこれだったんじゃないか、と。試奏した後、家でよくよく調べてみると、こちら、私が冒頭に挙げた主要な要素をほぼ満たしている。軽量、スピーカー内蔵、電池駆動、キータッチの品質。なにより値段が14000円と破格だった。ケチを付けるとすれば、音色数が10個しかない点と、2016年製ということで、せっかく買うのに最新じゃないのかという残念感がある。

14000円の中古品に多くを望みすぎだということは分かっている。実際、今月に入ってからの私はもう何度もこれに決めかけていた。しかし、それでも安さに目を眩ませて本質を見失ってはならないという意識が最後の最後で自分を踏みとどまらせる。楽器としては安かろうが、生活資金を危ぶめることに変わりはない。せっかく買ったのにやっぱり要らなかったなんてことになるかもしれない。思わず弾きたくようなキーボードでなければ意味がないのだ。

思わず弾きたくなるキーボードとはどんなものか。私はこれまで手軽さが大切だと思っていた。しかし最近の私は、手軽さと同じくらい品質にもこだわったほうがいいのではないかと思うようになってきた。近頃の技術革新は凄まじく、数万円のキーボードでも高品質の音が鳴らせるようになっている。惚れ惚れするような音色が手に取ってすぐに鳴らせたらなんて素敵な生活になるだろうかと夢想する。NP-12は手軽さと本格さを兼ね備えていて個人的にかなり評価は高いのだが、残念ながら音色にそこまでのクオリティはない。私が当初買おうと思っていたCASIOのCT-S1と比較しても音質の差は歴然。しかしこちらはキータッチに不満があり、値段も3万近くなってしまう。音色以外の面ではNP-12に軍配が上がることを考えると、3万も出して買おうとは思えない。どうせ3万出すならクオリティを求めてもっと高い5万とか7万とかのを買った方がいいんじゃないか。

そんな中で、新たに選択肢に浮上してきたのが、CASIOのPrivia PX-S1000 およびその後継機PX-S1100なのだった。ネットで調べる限りかなり良さそうだった。今度の休日、試奏して確かめてみたい。

 

8月7日(土)

無事に一週間を乗り切った。といっても今日は仕事でミスをしまくってぐちゃぐちゃになっていたので、精神的にはぜんぜん無事ではなかった。しかし、とりあえず一週間が終わった。明日からは三連休だ。何をしようか。

まずは体力回復。その後は久しぶりの自由の時間を満喫したい。八月に入ってから忙しくなって生活が荒んでいる。皿洗いも洗濯も掃除も家の中のことにほとんど手が回っていない。生活の乱れは精神の乱れ。乱れた精神は乱れた生活を作り、そしてまた精神の乱れに繋がっていく悪循環。体力が戻ったら、まずは家の片付けをしよう。それから自分のやりたいことをやろう。おれのやりたいこと。

おれのやりたいことってなんだろう。忙しさにかまけているとそんなことを考える暇もなくなる。でもそれは別に、考えないことが良いことというわけではなくて、やっぱり自分自身のことについてじっくり考える時間はあるべきなんだと思う。そうでないと、現実の迫力に押されて、どこまでも流されていってしまいそうになる。

こうして日記を書くことは、おれのやりたいことだ。日記を書いて、公開する。公開した文章が、何年も何十年分もストックされて溜まっていく。そして、それを誰でも読める場所に置いておく。誰が読むのかは分からない。そもそも誰かに読んでほしいと思って書いているのかどうかも分からない。でも、やりたい。

楽しいからやる。というだけではない。その先になにか光が見えるものこそやりたいと思う。自分自身の目指すべき方向性みたいなものを考えるとき、その全体像は見えなくても、部分的には垣間見えるときがある。生活の中のどこかに必ずヒントが転がっている。でも日々を忙しなく過ごしていると、生活のほとんどがパターン化されてきて、その外にある輝きに目を向ける余裕を失ってしまう。その余裕を取り戻すために、私は日記を書きたいと思っているのかもしれない。