8月31日(火)

ツイッターを見ていたら、「地方で食っていく」というタイトルの記事に同時に二つ出くわして、なんとなく読んでしまった。普段あまりこういうのは見ないのだけど、今日はなんとなく。

一つ目は、都会風の小洒落たパン屋が地方の小さな離島で成功している、とかっていうような話で、いかにも成金風の金髪の若手社長がある著名な起業家と対談していた。成功の秘訣はSNSで、先着100名に無料でパンを配るとかしてネット上で注目を集めたら人が集まってウンタラカンタラみたいなことだった。いまはネットがあるから地方に住んでいる人でも情報感度が高くて、でもそのわりに娯楽が近くにないから、近所におもしろそうな場所ができるとやっぱり人は集まるんだよねー、とかそういう話。

二つ目は、大手企業を脱サラして地方に戻って、地域おこし協力隊になった三十代中盤男性の記事。都会から地方に移住して、家賃や食費などの経費は下がったけれど、自動車の維持費など掛かるものは掛かるとか。月給は二十万。任期は三年。仕事としては空き家や空き地の再利用のために耕作放棄地を開墾して畑にしたりとかいろいろやっているとか、そういう話。

どこかで聞いたような話。メディア上でよく目にする地方というのは、案外こういうイメージなのかもしれない。

否定はしない。ただどちらも、この世界のほんの一部のことを言っているに過ぎないと思った。いずれにせよ今の私には関心がない。じゃあ何に関心があるのかというと、それもよく分からないのだけれど。

 

 

窓を開けると秋の風が入ってくる。

生活が落ち着いてきているのは喜ばしい。でも、このまま自分だけの世界で人生が終わっていくのだろうかと思うときもある。このまま小さくまとまっていくだけなのだろうか。

この数ヶ月はとくに、現実の圧倒的な密度に忙殺されて要らぬことを考える余裕もなかった。夕飯に作ったもやしのナムルに炒りごまをかけながら、四月の私はこのたった数百円の炒りごまを買うことにすら躊躇する経済状況だったのだよな、と感慨に浸っていた。少額とはいえ、定期的に収入が得られることの安心感。正直に言って、今になってようやく人並みになれたような嬉しさを感じるときもある。

 

数年前までの私は、さまざまな意味で不安定だからこそ、変化と刺激に富んだ日々を過ごすことができたと言えるのかもしれない。少数派であることの孤独と、だからこそ得ることのできた自由、それから結束。世間的な価値観とは外れたところで、自分自身がこの世界で生きていくにあたってどうしてもこだわらなければならないものについて考えつづけていた。

白い紙の上に水滴をまき散らしたように世界が広がったけれど、今はもうそのほとんどがよく見えない。こうした経験のいくつかは、自分の生きている場所とはべつに世界があることを教えてくれたけれど、その世界の中で生きるにはどうすればいいのかについては分からなかった。さまざまな世界をショーウインドーを眺めるみたいに外から見ているだけだった。今の私がやっていることは、自分が生きていける小さな場所を広げていくということで、これは今までの私がやろうとしてもできないことだった。

 

 

久しぶりに絵を描きたいなあ。抽象画を描きたい。

甘いものを食べたら塩辛いものを食べたくなるみたいに、サウナに入ったら水風呂に入りたくなるみたいに、日々の具体的な諸事に奔走していたら、この世界の一切合切と何ら関係のない透徹した抽象性のようなものにときどき触れたくなる。人間の生活とか生き死にとか社会の維持や繁栄とか、そういうものをはるか眼下に見下ろすようなレベルで世界を眺めるということをしたくなる。私にとっては絵を描くことが、それになるような気がした。