8月3日(火)

大変な一日だった。疲れすぎて何度も意識が吹っ飛びそうになった。

帰り道、あまりにも疲れていたので、スーパーで好きなだけ食べたいものを買うことを自分に許した。食欲がないときこそ自分が食べたいものを食べるべきだと思ったのだった。このところの異常な暑さで夏バテ気味だ。しかも昨日から腹の具合が悪くなって、食欲がガクンと落ちた。しかし、精が付くようなものを食べないと、とてもじゃないけど明日以降保たない。

ということで、スーパーで思いっきり買い物。アボカド、長芋、焼き茄子、フルーツグラノーラ、豚肩ロース、鳥モモ肉、トンテキ、リンゴ酢、グレープフルーツ、ヨーグルト、ソルティーライチ…など。まだ腹の具合は完全に良くなったとは言えない状況だけど、それでも食べたいと思えるものを手当たり次第に買った。計、四千五百円。一ヵ月の食費を最高でも二万五千円以内に抑えたい私としては、かなりの予算オーバー。しかし、しのごの言ってられない。生死がかかっている。

帰ってからすぐシャワーを浴び、フラフラの状態で肉を焼いて食べ、冷房をガンガンに効かせた部屋のベッドに倒れ込んでそのまま寝た。スコーンと寝た。今年一番の睡眠だったかもしれない。海の底に突き落とされたみたいだった。

 

喜びがないと生きていけない、という当たり前のことを思う。今日はとにかく肉が食べたくて、実際に大量に肉を買って食べて満足したわけだけど、じつを言うと刺身も食べたかった。明日を乗り切ったら刺身を買うことを自分に許可してあげたい気持ちに今からなっている。でもそんなことしていいのだろうか。分からない、でも、何か喜びがないと明日以降を生きていけない。

ほんとうは買いたい本もやりたいこともあるのだけど、お金のことを考えて気持ちにストップが掛かっている。いまは無料で娯楽が手に入れられる時代。経済的に余力のない身分で、気晴らしのためにお金を遣うのは、勇気が要る。これは言い換えると、自分の欲望を肯定するのに勇気が要る、ということだと思う。

どうしてなのか分からないけど、なんだか最近のおれは、知らず知らずのうちに慎ましく生きようとしてしまう傾向がある。なんというか、分をわきまえて生きようとしてしまう、というかなんというか。しかし本当にそれでいいのだろうか。自分で自分に勝手に制約を課してしまっていないだろうか。なにかこう、もっと素直に欲望を肯定してもいいのかもしれない、とかそういうことを思っている。

8月2日(月)

腹が痛くて昼から寝ていた。せっかくの休日だったが、仕方ない。警報が発令されるほどの猛暑だったということもあって、どうせ外には出られなかった。五時過ぎ頃に目が覚めると、腹の具合は少し良くなっていた。様子を見ながら適当に夕飯を済ませる。冷や飯があったので、温めて卵かけご飯にした。

 

八月になった。これだけ暑いと、さすがに日中は冷房を付けなければいけないのかもしれない。夜はまだときどき吹いてくる外からの風が気持ち良いと感じられるくらいだけれど、昼は頭がぼーっとしてとてもではないが活動できない。

とくに私は車がないので、外に出るには自転車に乗るしかない。このくそ暑い中さすがに自転車に乗って外に出ようとは思えない。天気予報によると明日の最高気温は三十七度に達するそうだ。完全に回復しきっているとは言えない状態で明日以降も乗り切っていかなくてはならない。大丈夫だろうか。

 

健やかな精神は健やかな身体に宿る。精神の健やかさとは何か。それは、目の前に広がる現実、それ以上のものを思考したり想像したりできる力のことだと思う。昨日はまだ余力が残っていたのでブックオフに行ったのだが、自分が昔ハマっていた漫画を読んでみたら、懐かしさとともに頭の中がグワーッと掻き混ぜられるような感じがして、ああ、作品に触れるってこういうことだったよなあ、と久しぶりの感覚に浸った。世界観が刷新される、というか、世界に対する認識が鮮明になる、というか。パソコンでいうところの、キャッシュクリアみたいな。

日常を生きているだけではどうしても置き去りにされてしまう微細な感覚というものがある。日々の生活の中ではなんとなくしか感じられないもの。わざわざ言葉にするほどでもないようなこと。言葉にしようにも、なんと言ったらいいのか分からないようなもの。そこを捉えて表現する。表現しようとする。そうした表現に触れると、触れたこちらまで、作者と同じ水準に引き上げられるような気持ちになる。

なんというか、具体的な次元と抽象的な次元を行ったり来たりすることが大切なのだろう、と思う。日々の具体的な生活のなかに、人間とは何か、生命とは何か、生きるとは何か、そういう壮大なテーマが隠れていて、それを忘れないようにしておくにはさまざまな形で想像力を外部から供給していかないと足りないのだと思う。

 

傷付いた血管に血小板が集まってかさぶたになるみたいに、精神の破れたところに言葉が集まって塊になる。私たちはその塊のことを自分自身の姿だと錯覚してしまうけれども、もしかしたら塊の下で塞がれている血、もしくは傷そのものが、私たちの実際の姿なのかもしれない。

ぜんぜん関係ないけど、常々そういうことを思っている。

7月31日(土)

怒涛の一週間が終わった。明日と明後日は回復に努めたい。自分へのご褒美に全力を尽くす。まずはファミリーパックのアイスを買って好きなだけ食べるところから始めたい。

適当なお菓子が家にあると、ひじょうに安心感がある。これは、ドラクエで言うところの、ダンジョンに入る前にとりあえず大量に薬草を買って持たせておく、みたいなことなのかもしれない、とふと思った。

RPGの進め方には性格が出る。子どもの頃から私はボス戦で負けるのが極端に嫌いで、確実に勝つために最善を尽くすタイプだった。

戦いを最高の状態で迎えたい。だからボスにたどり着くまでに出会うダンジョン内の敵になるべくMPを消費しないようにした。回復呪文を覚えていても、なるべく薬草で済ませた。といってもボス戦でMPが無くなって困るというようなことは一度もなかったのだけれど。

そもそもボス戦を迎えるにあたって、ありとあらゆる事前準備を行っている。まずは入念にレベル上げ。それから、その時点で手に入れられる最高の武器や防具を買い揃える。そうやって準備万端の状態になってから初めてダンジョンに挑むから、たいていボスに対してパーティが強くなりすぎて、手応えなくあっさり勝つことが多かった。子どもながらに、本来味わうべき楽しみ方とは違うやり方をしているのかもしれないなと思いながらプレイしていた記憶がある。

 

ところで、今の私にとってボス戦とは何なのだろう。ダンジョンとは何なのだろう。ダンジョンで出会う敵とは何なのだろう。象徴的な意味で。あまりそんな風に考えたことがなかったけれど、考えてみるとちょっと面白いかもしれない。

四月の初め頃、仕事の面接に行ったときは「ボス戦」感があった気がする。一発勝負の、緊張を強いられる場面。成功するか失敗するか全く分からない。失敗すると、精神的に決して無傷ではいられない。あれは今年上半期の山場だった。

思えば、面接の前の私はボス戦前の私のように慎重に慎重を期して、たとえば当日どんな服装で行くかとかどんな言葉遣いで何を話すかとか、さまざまな策略を張り巡らせていた。と言っても、いざ始まれば出たとこ勝負で、空気を読みながら自分の思ったことを誠実に伝える、くらいしかやることはなかったけれど。

職場は、ダンジョンみたいなものなのかもしれない。というか、自分にとって未知の環境が、ダンジョンと言ったほうが適切かもしれない。職場は今まではダンジョンだったけれど、今はもう少しずつ慣れてきて、未知の環境に進もうと思ったら他を見出さないといけない。

緊張を強いられるような経験は、日常生活を送る上ではなるべく避けよう避けようとしてしまうけれど、それがないと日常のルーティンに埋没して、日々が緩慢になっていくような気もする。

なにか自分なりの一歩、成功するか失敗するか分からないような勝負の場面。生きていれば必ずそういう場面には出くわすけれど、いざ出くわしたときに大きく崩されないように、日々研鑽を積んでいくことも必要。そういうことなのかもしれない。

 

 

最近、煮干しをお菓子として食べるのにハマっている。タンパク源として肉より魚を食べるようにしていきたいと思っていたので、ちょうど良い。飴とかも久しぶりに買ってきて舐めてたんだけど、噛んじゃうから、やっぱり煮干しとかそういう噛む前提のやつの方が良い。

7月26日(月)

継続して書くはずだったが、気が付くと数日サボっていた。一日はあっという間に過ぎていく。とにかく書くこと。書いて出すこと。中身は問わない。形式さえ問わない。ただ日付とともにある一定量の文章が蓄積されていくこと。そういう風にして書くなかで見えてくるものがきっとあるはず。

この日記とはべつに数年前からnoteでブログのようなものを書いているのだが、あちらはなにか「完成品」としての文章を描かなければならないというプレッシャーを無意識に感じてしまって、一時期からどんな風に文章を書いたらいいのか分からなくなってしまった。私は文章を書くのが苦手だ。手紙やメールや気心が知れているはずの友人とのLINEでさえ、文字を打つのに異様に時間が掛かり、かつ、書き終えても自分の書きたかったことが書けたという実感が乏しい。

おそらくコミュニケーションのために書く文章というのが苦手なのだと自己分析している。私にとって文章とはまずモノローグなのであって、なんというか、そもそもこうして文章を書くということが、他者に対して開かれているという気がしない。そういう実感を持ち得ない。

 

日記を更新し続けている同年代の人文系研究者の人のスペースを聞いていた。横浜在住なのだそうだ。ああやって夜間に気軽に出歩ける場所があるのは羨ましい。徒歩圏に繁華街があって、雑多な人々の中にいつでも気安く入っていけるのは、やはり都会ならでは。いまの生まれ育った地方での生活に不満らしき不満はないけれど、やはりたまに気晴らしにどこかへ出かけてしまいたいという欲望はある。だからといって都会で暮らしていたとしても、バーやクラブなどを遊び歩くということはなかっただろうが。

人生が固定化されていくこと。それは喜びであると同時に退屈でもある。一時期の急場を凌いである程度生活にゆとりを感じることができるようになったのはありがたいことだが、それはその間に棚上げしてきた問題と向き合うということでもある。自分の人生をどのように生きるのかという問題。自分が大切にしていきたいものは何かという問題。

差し当たり生きていくこと。そのようにして日々が流れていくこと。それらは何も悪いことではないのだけれど、何かが鈍麻していくようでもある。余計なことを考えるということが、人間の人間たる、私の私たる、苦しさでもあり面白さでもあったのではないか。近頃の私は思い悩むということがない。

直近で悩んだことといえば、最近ずっと頭の一角を占めているピアノ問題の関係で、1万4000円の中古の電子ピアノを買うかどうか迷っていることぐらいだ。二十歳の頃の私はもっと壮大なことで悩んでいたはずだった。膨大な可能性の中から何を選んで生きていくべきか。一度きりしかない自分の人生をいかに生きるのか。あれから八年経った私は、瑣末なことに気を取られて人生というものの全体を見ようとしていないのではないか。かといって若い頃の私が、瑣末でなかったかというとそういうわけでもなかったけれど。

瑣末かどうかという意味では、つねに一貫して瑣末だったのかもしれない。同級生とどんな話をしていいか分からないとか、結局そういうものの蓄積が私を壮大な問いに向かわせていたのだとも言えるから。

 

今日は件のピアノを買うかどうか迷い、迷っているうちに眠くなり、昼寝をしているうちに一日が終わった。連休最後の休日だった。夕飯に食べたとろろがうまかった。

7月22日(木)

暑くて頭がぼーっとする。今日は午前七時くらいに起きて網戸の張り替えの続きをしていた。最近、暑すぎて朝そんなに長く寝ていられないから、結果的に早起きになっている。

二階の網戸は数日前に貼り終えたのだけど、一階はまだ終わっていなかった。二枚替えたら疲れて昼寝。午後からまた二枚替えて、疲れてまた昼寝した。一日中やっていたのに、まだ四枚しか終わっていない。でもまあ休日にしては、がんばっているほうだと思いたい。網戸の貼り替えと一言で言っても、サッシの掃除とか同時並行でいろいろやらないといけないことあるから、まあまあ骨が折れるのだ。

残りはあと四箇所。今日のペースでのんびりやっても、明日中には確実に終わる。そしたら、一階でも二階でも家中窓全開で過ごせるようになるだろう。いいなあ。締め切った部屋で冷房を効かせるよりも窓全開で扇風機を回している方が、なんとなく良い気がする。ていうか、さっき試したらやっぱり良かった。

じつは今のままの網戸でも使おうと思ったら何の支障もなく使えるのだった。でも何十年も前に貼られた網戸だから汚れていて、しかも網戸の色がシルバーだから、網戸越しに外の景色を見ると、霞がかかったようになってしまう。今回、網戸は黒色のものを準備した。調べによると、黒い網戸のほうが外の景色がはっきり見える、とのことで、試したら本当にそうだった。網戸をしているのかしていないのか分からないくらいクリアで、家の開放感が増した。

家の雰囲気が良くなっていくことに喜びを感じる。やるべきことはまだまだあって、網戸が終わったら、洗面所下の収納を整理したり台所の小物類をまとめるスペースを作ったりしていきたい。

7月20日(水)

深夜二時半。床に入ってふつうに寝ていたのだが、ふと目が覚めてしまった。しかし明日は休日。そんな不規則な振る舞いだって許される。

枕元に凍らせたペットボトルを置いておくと除湿機の代わりになって涼しい、というツイートを以前見かけた。ちょうど二リットルの空のボトルが何本もあったので、今夜、試しているのだが、効果のほどはあまりよくわからない。多少は涼しいのかもしれないが、なんとも言えない。

しかし、結露した水がみるみるうちに器の中に溜まっていくのは、見ていて気分がいい。おまえらが空気中に漂って室内の不快指数を上げていたのか。体感としてどれほど効果があるのかは判然としないけれど、成果が目に見えるだけで、なんとなく効き目もあるような気になる。

今夜は窓を全開にしていたので、効果が得にくかったのかもしれない。今度、雨が降ったときに試してみよう。それから冷凍庫の効きが甘くて、ペットボトルの水が完全に凍っていなかったので、それも改善したい。

自作で除湿機が作れたら、めちゃくちゃ嬉しいなあ。こんな風に手作りで自分の生活を良くしていくのは非常に楽しい。

 

二日くらい前だったかに、買い物が楽しい理由は自分の生活に変化を起こせるような気がするからだ、みたいなことを書いたけれど、ほんとうだったら自分で手作りした方が望むような変化は起こしやすい。買い物でできることは、あくまでも万人向けに提供された商品を手に入れることだけなので、ある意味、規格化された変化しか起こすことができない。

まずはなんでも自分でやってみることが大切だ。現代人の生活はあまりにも多くのものが商品化・専門化されすぎていて、「専門的に作られた商品を買う」という以外の選択肢が見えにくくなっている。しかし本来なら人は、自分たちの生活は自分で、もしくは周りの人と協力しながら手作りして暮らしていたはず。なんでもかんでも商品を買って済ますというのでは、結局、自分の生活を自分なりに豊かにしていく工夫を学ぶ機会を、自分から捨ててしまうようなものだ。

 

というわけでいろいろ書いたけど、とりあえず明日は残りの網戸の張り替えをやりたいと思う。網戸の張り替えだって業者に頼めばお金が掛かる。なるべくお金を掛けないためにも、自分でやるのが一番。

7月19日(月)

暑すぎてやばい。しかも、天気予報によると、これから一週間はほとんどずっと真夏日らしい。どうかしている。

マスクもただただ鬱陶しい。たまに人っ子ひとりいない道端でも律儀にマスクを付けて外を歩いている人を見かけるのだが、「いや、はずそうよ」と思う。都会の場合は事情が違うのかもしれないけれど、少なくとも私が住んでいるような地方都市では、そもそもほとんど人なんか出歩いていないのだから、基本的に外を出るときにマスクを付ける必要はないと思う。ふつうに考えて、マスクをしないで新型コロナに感染するリスクよりも、マスクをして熱中症で倒れるリスクの方が高い。もちろん、店とかに入ったときは一応は付けるけれども。

 

暑すぎて頭がぼーっとする。暑いのは本当に良くない。寒いほうがまだマシだ。

まだ七月中盤なのにこれほど暑いということは、八月に入ったらどうなってしまうのだろう。しかも、だいたい毎年そうだけど、九月に入ってからも残暑で、けっこうな暑さはまだまだ続く。十月になればさすがに落ち着くだろうけど、今度は秋雨前線がどうとか言って、過ごしやすい日はそんなに多くない。そうこうしているうちに十一月になれば、もう寒い。そして寒さは、十二月から三月くらいまで続く。四月に入って桜が咲く頃になれば、やっと心地よく過ごせるようになる。それが一年。そう考えると、一年のうちに心地よく過ごせる季節って、春と秋のほんの数ヶ月しかないんだよなあ。