7月18日(日)

暑かったが、買い物に出かけてきた。買い物ってなんであんなに楽しいんだろう。

自分自身や自分の身の回りの世界に対して変化を起こせるような気がするから楽しいのかもしれない。店先に並ぶ商品を見ていると、日常を過ごしている自分の生活が相対化されるような感じがする。あまりにも見慣れていて、もはや風景の一部になっている日常の中の一つ一つのアイテムが、もともとはこうして店頭に並べられていたものなのだよなあ、と想像する。すると、いつも身の回りにある何気ないモノの一つ一つが、べつにそれでなくてもよかったのにあえてそこに置かれているようなものとして感じられてくる、というかなんというか。

周りに多くの買い物客がいるということも重要だ。私は基本的には人混みがあまり好きではないのだけれど、そうは言いながらもやはりどこかで求めているのかもしれない。

買い物をしているときに、自分と同じように買い物をしに来ているたくさんの人に囲まれていると、自分自身と言う存在もまた相対化されて感じられる。自分と言う人間もまた多くの人間たちの中の一人に過ぎないということ。私にとって私という人間は特別でも、私以外の人にとってはありふれた存在に過ぎないということ。家の中で一人で過ごしているだけでは、どれほどネット越しにたくさんの情報に触れていても、こんな気持ちにはならない。

自分という人間も、自分が日常の生活を過ごしている環境も、いま自分が思っているような形ではないものに変わっていく可能性がある。そういうことを感じるからわざわざ人混みの中へ行きたくなるのかもしれない。買いたいモノがあるから目当てのお店に向かう、というのではない。とくに買いたいモノなどなくても適当にぶらぶら歩く。それこそがショッピング。

 

とかってさっきからいろいろ書いているけれど、週末にイオンに買い物に行くことをふつうに楽しみとしてしまっている自分ってどうなんだろうと思わないでもない。そんなふつうの感受性の人間でよかったのだろうか。いやべつにいいのだろうけど。

 

地方在住、二十代後半、独身。なんか、自分と似ている人に出会うことが年々難しくなっている。でもそれは自分自身が求めてきたことでもある。自分の身の置き場所を社会の側に用意してもらおうと期待しているうちはまだ未熟。大人になるということは、自分の人生が他人と違っていくのを受け入れていくことなのかもしれない。

 

7月17日(土)

今日も帰宅してすぐ倒れ込むようにして寝る。二時間くらい寝てたんじゃないか。

あまりに外が暑かったので、帰りにスーパーに寄ってファミリーパックのバニラアイスを買ってきたのだが、ひとくち食べて、余っていたウイスキーをサイダーで割って一杯飲んだら急に猛烈な眠気が迫ってきて、意識を保っていられなくなった。

家が経年劣化すると柱が瓦の重みに耐えられなくなって倒壊の恐れが高まる。密林の奥地に何千年と立っているような老木にもいずれは朽ちて倒れるときが来る。さきほどの私は、なんというか、そういう感じだった。自然の摂理に従って、なるようになった結果、寝た、という感じ。死ぬときもあんな感じなのだろうか。

高いところにあるものが低いところに落ちていくのは自然だ。むしろ重力に逆らって高いところに重たいものを置こうとすることの方が不自然なのだ。そう考えると、直立二足歩行ってかなり不自然な形態なのかもしれない。

植物がどうして重力に逆らってあれほど背を高く伸ばせるのかというと、それだけ深く地中に根を張っているからだ。人間にはそれがないので、直立しているという状態自体にどうしても無理がある。

それにしても、植物の根のしぶとさというのは凄まじい。下手をすると、幹より太い根や地下茎が地中に何本も伸びているなんてことがある。先月から庭に畑を作るために土をせっせと掘り返しているが、そのたびに植物の根の強さに驚愕する。根こそぎ伐採しようとすると、ものすごく骨が折れる。

明日、庭どうしようか。休日なのだけど、先月から続いている庭作業の残りをやるかどうかどうか迷っている。こんだけ暑いと、そんだけ大変な庭作業なんてもうまったくやる気が気が起きない。買いたいものもあるし、適当になんかどっか買い物に行こうかなあ。

 

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あと、今これ聴きながら書いているのだけど、めっちゃ良い。

7月16日(金)

梅雨明けとともに猛烈な暑さ。晴れるのは嬉しいのだが、暑すぎる。初夏ってもっと爽やかなはずだが。

今日は休日で、できれば中途半端になっていた庭の手入れの続きをしたかったのだけど、とてもじゃないけど外に出る気が起きなかった。と言っても、屋内にいても十分に暑い。

 

テレビのことを父に相談したら、別のケーブルを持って家にやって来た。父の家のテレビで使われているケーブルだ。昨夜、こちらの家のケーブルの一部が破損しているのを見つけて、もしかしたらこれが原因で映らないのかも、と相談していたのだった。

しかし交換してみたものの一向に画面は映らない。それからテレビの設定をいじって設定を初期化したり、アンテナの具合を見てみたりしたのだけど、何も変化はなかった。設定画面を見るとテレビ自体の故障というより電波の受信が上手くいっていないらしいことは分かったのだが、どこに不具合が起きているのか分からない。

こうなったらもう専門業者に診てもらうしかない。でも、そんな費用を掛けてまでテレビが必要なわけでもないから、いっそこれを機にテレビは卒業ということで。そんな話をしていた折に、「もしかしてこのブースターに異常があるのかもしれない」と父が言い出した。

アンテナから受けた電波を増幅するために、ケーブルとテレビの間にはブースターを繋いであった。父によると、雷の影響で電圧が変化すると電子機器は故障することがあるらしい。ということでブースターを取り外し、ケーブルを繋ぎ直すと、予想通り見事に画面が映った。「おおーー!!」という歓喜の声がリビングに響く。

今回ばかりは父にあっぱれというしかない。話してみると、家屋の建材のことや維持管理に掛かる細かい金銭的なことなど、なんだかんだやっぱりよく知っている。だてに私より長く生きていない。

 

午後は、父に車を出してもらって病院で用を済ます。それから、父の家で溜まっていた録画を観てきた。BSは父の家でしか観られないので、観たい番組があると録画しておき、こうしてときどき父の家に行ったときに観るようにしている。

今日はBS世界のドキュメンタリーで「ルワンダ 虐殺の子供たち」を観た。今年一月に放送されたものだ。以下、NHKの公式サイトの紹介文。

26年前、フツ族によるツチ族の虐殺で3か月間に100万人以上が犠牲になったルワンダ。虐殺事件後に生まれた若者たちの取材から、事件が若い世代に落とすくらい影を描く 高い経済成長率を誇り「アフリカの奇跡」と注目されるルワンダ。26年前フツ族によるツチ族の虐殺で3か月間に100万人以上が犠牲になったが、事件は過去のものになったのか?虐殺事件後に生まれた16歳から25歳までの若者に取材、事件が彼らの育つ過程でどんな影を落としているかを描く。原題:Rwanda,a Legacy of Genocide Young Voices(フランス・ベルギー 2019年)

「ルワンダ 虐殺の子どもたち」 - BS世界のドキュメンタリー - NHK
www.nhk.jp

内容は、非常に重かった。なぜこんなことが起きたのか全く理解できない。しかもたった二十六年前に。

番組を見た後に少し検索して調べたのだが( なぜ「世界」は80万人の死を防ぐことが出来なかったのか? ルワンダ虐殺から22年(前半) | ハフポスト)、当たり前だがちょっと検索したくらいのことでは分からなかった。詳しく知ろうと思ったらやはりいろいろ本を読んだりしたほうがいいに決まっている。だがテレビっ子の私としては、どうしても活字よりも映像の方が身近で、気持ちが向かいやすい。

最近すっかり本を読まなくなってしまったが、せめてものあれで、こういった良質なドキュメンタリー番組だけは定期的に観るようにしている。いまの私には自分自身の日常的な生活というものがまず目の前にあって、なによりもそれを大切にしていきたいと思っているけれど、そんな中でも、自分の日常を越えるなにか、世界そのものに対する感受性のようなものは、なんとか失わないようにしたい。

 

夕飯はカツ屋でロースカツ定食を奢ってもらった。

7月15日(木)

また中途半端な時間に寝てしまった。最近、夕飯後に気が付いたら寝ている。そして、夜寝られなくなる。昨日もなんだかんだ深夜四時くらいまで目が冴えていた。

ちなみに昨夜、網戸の力を試そうと窓を全開にして寝てみたら、夜風が信じられないくらい吹き込んできてむしろ寒いくらいだったから閉めた。この夏、冷房は要らないかもしれない。

 

今日の夕食は久しぶりに白米を食べた。白米に「味道楽」というふりかけを掛けて食べた。

「味道楽」ってどれくらい知名度があるものなんだろうか。私は「のりたま」に匹敵するくらい好きなのだが。

ぜんぜん関係ないけど、昔「おとなのふりかけ」というのが流行ったことがあって、私はその明太子味がまあまあ好きだったのだけど、値段の割に量が少ないのと、そんなに好きではない味が一緒に付いてきてしまうこともあって、大人になった今、「おとなのふりかけ」を買うことはなくなった。ていうか今も売っているのだろうか。知らない。眼中にないから探そうという気も起こらない。

どうでもいい話を書いてしまった。ついでにもっとどうでもいい話を書く。

 

このように、私にとってふりかけと言ったら「味道楽」か「のりたま」が王道なのだが、じつは私には「この二つのふりかけを使うときだけは例外的にマヨネーズを白米にかけてもいい」という自分でもよくわからない謎のルールがある。今日も「味道楽」の上からマヨネーズをかけて食べた。

マヨネーズを白米にかけるという行為はどう考えても邪道だ。私も白米にマヨネーズだけをかけて食べようとなんて思わない。マヨネーズと白米、ちょっともう想像してみただけでもありえない。美味しくなるはずがない。直感的に脳が拒否するような組み合わせ。しかし不思議なことに、事実として「味道楽」か「のりたま」をかけたときにだけは、白米とマヨネーズは最高の相性を発揮するのだった。

このことに初めて気づいたのは、私がまだ小学校低学年の頃だったと思う。おそらく最初は、何かの拍子に間違ってふりかけの上にマヨネーズをかけてしまったのだろう。白米の上にマヨネーズをかけるなんてこと、白米にお箸を刺しっぱなしにするのと同じくらいタブー感の強い行為だと、子供ながらに感じてはいた。けれども、その相性の良さに気が付いてからは、ふりかけをかけるときにマヨネーズを組み合わせないではいられなくなったのだった。

 

ちなみに、ヨーグルトにグレープフルーツを入れたり、ベビーチーズに味付け海苔を巻いたりすると最高に美味しいと発見したのも、おそらくこの時期だったと思う。料理の世界には「マリアージュ」とかっていうハイカラな言い方があるらしいが、食べ合わせの面白さというのは小学生でも気が付くものなのだろう。

7月14日(水)

帰宅して夕飯を済ませた後、気が付いたら寝ていた。夕飯は、作り置きしていたミートソースが中途半端に残っていたので、それをパンに挟んで、マヨネーズとチーズを塗って食べた。うまかった。

自炊生活も八ヶ月になり、こういう「名前のない料理」とでも言うような雑な食事のクオリティが上がっている実感がある。なんというか、いまの自分の舌が好みそうな味付けをイメージして、それをまあまあ正確に再現できるようになってきている。手持ちの食材と調味料を組み合わせて、格別に美味しいわけではないがそこそこ美味しい料理を確実に作ること。豪華である必要はない。地味でも安心して美味しく食べられる料理。そうしたものをコンスタントに作る能力こそ、自炊には求められる。

 

午前中から活動的な一日だった。やろうやろうと思っていた網戸の貼り直しを、気合いで午前中に終えたのだ。最近、気温の上がり方が著しい。梅雨が去り、いよいよ夏が始まろうとしている。網戸は必須だ。

なるべく生活費を節約したいので冷房を使うことに抵抗がある。少なくとも今みたいにまだ本格的に夏が始まったとも言えないような段階で、気安く冷房を使うなんて許されない。さすがに八月に入ったら考えてもいいと思ってはいるけれど。

夜風を有効に活用すれば、なんとかなるんじゃないかと考えている。このところ寝苦しさは扇風機で補ってきたが、網戸が完全に補修された今、窓を全開にして寝ることができる。男一人、寝込みを襲われるなんてことはなかろう。

私が普段寝室として利用している二階の部屋は、西日が直撃して日中こそサウナのように暑いが、窓だけは三面に付いているので風通しは良く、夜を凌ぐくらいならなんとかなるのではないかと思っている。ていうか、そもそも二階の部屋には冷房が付いていないので、これでどうにもならないことが分かったら、いよいよ二階の部屋を今後とも寝室として利用していくかどうか再考する必要性が出てくる。今夜それを確かめたい。

 

私がいま滞在している祖父の家には、風呂トイレ台所を除くと、大きく分けて三つの部屋がある。一階の部屋がひとつと、二階の部屋がひとつ、それからまた違う方向に二階の部屋がもうひとつある。少し変な構造の家なのだ。

家のことについてはまた今度詳しく書きたいが、私のイメージでは、将来的に一階の部屋はリビングとして、私も訪れた人も同じようにくつろげる開放的な場所にしたいと考えている。それに対して二階の部屋は、前者はおもに私の個室兼寝室として、後者はおもに訪れた人の個室兼寝室として利用できるようにしたい。

一階の部屋は冷房が付いている。涼しい部屋で寝たければそこを使えば良いだけなのだが、将来的に一階は共有スペースとして自分以外の人にも使ってもらいたいと計画していることを考えれば、自分の睡眠はなんとか二階の個室で取りたい。そこにはこだわりたいと思っているのだった。

 

しかし、なんだか自分の家のことのように書いているけれど、あくまでもここは祖父の家で、私は管理人に過ぎない。家の将来的な運用方法についてまで語る資格はない。

夢の実現には、現実的なやり方で外堀を埋めていく必要がある。関係者を説得するためにも、管理人としての責務はちゃんと果たさなければならない。

明日は燃えるゴミの日だ。庭木の剪定で出たゴミが大量に溜まっているので、明日ちゃんと早起きして出そう。

7月13日(火)

テレビが付かなくなった。先日の雷雨と風雨でやられた可能性がある。今週のどこか時間のあるときに、アンテナの向きを調整したりケーブルの具合をチェックしたりしてみよう。テレビがないと、やはりもの寂しい。

こんなことを書くと、「え、いまどきテレビなんて見てるの?ださー」とでも思われそう。私自身も、半分はそう思っている。「いまどきテレビなんて見てるのかよ。観るものなんてネット上に山ほどあるじゃない」と思っている。でもその一方、「テレビふつうに面白いな」と思う自分もいる。実際、面白い番組は面白い。

地元に帰ってきてから、テレビをよく見るようになった。というか、もともと私はテレビっ子なのだった。子供の頃から娯楽と言えば、小説や漫画やアニメや映画よりもまずテレビだった。『めちゃイケ』とか『笑う犬の冒険』とか『とんねるずのみなさんのおかげでした』とか大好きだった。

今でこそテレビがつまらなくなったとよく言われるようになったけれど、私が十代の頃はテレビにまだ勢いがあって、人気番組を見ていないとクラスの仲間に入れないくらいだった。お笑い芸人のモノマネとかずいぶんやったものだ。

下校途中に同級生とバラエティ番組の真似事をして話芸を磨き合っていた記憶がある。ただ友達と馬鹿話をして笑っていたという面ももちろんあったけれど、そんな中にもどこか緊張感のようなものがあって、なんというか、子供なりに「笑い」というものの高みを目指して行かんとするシビアな空気があった。それがまた面白かったのだった。

私の根っこにはそれがある。一言で言えば、大衆的なのだと思う。

学校の成績を鼻にかけていたこともあって、それなりに小賢しい優等生気質のようなものも、子供時代に身に付けたけれども、そこを一枚めくったら、クラスメートたちとお笑い芸人の真似事をして遊んでいた小学生の頃の自分が現れる。当然その頃は、人をイジろうとして不用意に傷付けてしまったり、人からイジられるのが辛くて泣いてしまったり、さまざまなコミュニケーションの失敗があって楽しいことばかりではなかった。今にして思えば、教室という閉鎖的な空間でなんとか自分のポジションを守ろうと必死で、素直に楽しいなんてとてもではないが言える環境ではなかった。

でもその頃の記憶を全否定したいとは思わない。タイプの違う人間と、どう付き合っていくか。そういうことを最初に考え始めたのが、あのときだったのだと思う。

7月12日(月)

将棋ウォーズで久しぶりに三連勝したからなのか、なんだか気分が良い。四間飛車にばかりこだわっていたのがよくなかったのだ。戦法をゴキゲン中飛車に変えてから勝率が格段に上がっている。

 

気分が良い要因は、他にも考えられる。帰宅してから家でテンションが上がる曲をひたすら熱唱していた。曲目はこちら。

ヒーロー (Holding Out For a Hero) - 麻倉未稀 - YouTube

V6 / TAKE ME HIGHER(YouTube Ver.) - YouTube

V6 / MUSIC FOR THE PEOPLE(YouTube Ver.) - YouTube

数年前にピアノを少しかじったおかげで、コードを伴奏しながら弾き語りのような形で歌を歌えるようになったのだが、これは私のQOLをかなり上げた。こう見えて高校の頃は同級生たちとカラオケにばかり通っていた私は、意外と歌を歌うのが好きなのだった(下手だが)。

それに加えて昨年からギターも練習しはじめたおかげで、アコギでも簡単な弾き語りのようなものができるようになった(下手だが)。キーボードは音色をいろいろ変えられて楽しいのだけど、やはり生音の魅力には敵わない。アコギは弾くと楽器が震えて、その振動が直に自分の体に伝わってくる。いかに忠実に音を再現していても、やっぱり電子楽器はどこかにどうしてもニセモノ感が漂う。

また、手にとったらすぐに弾きはじめられる手軽さも、こうした生楽器にしかない魅力だ。電子キーボードでは、そうはならない。弾こうと思ったときにパッと手に取ってすぐ始めることができない。

 

鍵盤を弾きたいと思ったとき、私には今、三つの選択肢がある。

一つ目は、数年前に知人から譲り受けたキーボード(YAMAHA MM6)。こちら、100以上の音色が内蔵されていて、機能も豊富で使い勝手も良い優れものなのだけれど、スピーカーが内蔵されていない、かつ、外部電源に接続しないと起動しないため、弾き始める前に「①スピーカーを接続し、②スピーカーと本体の電源を入れ、③スピーカーと本体の音声の調整をする」という工程を踏まなければならない。これは、アコギに比べると手軽だとは言い難く、たったこれだけの工程なのだが面倒くさくて、最近あまり弾けていない。

二つ目は、二年前に買った小型のMIDIキーボード(LAUNCHKEY mini MK3)。こちら、超軽量で持ち運びやすく演奏する場所を選ばない、という意味では手軽なのだけれど、MIDIキーボードという性質上パソコンと接続しなければ音を鳴らせないため、弾き始めるにはまずパソコンを起動して、専用のソフトを立ち上げなければならない。これがまた少し面倒臭い。それから、ダウンロードすればいくらでも音色を追加できてものすごく便利なのだけど、音源のデータがパソコンの容量を圧迫するので、それほど実用的ではない。そうした点も、マイナスポイント。

三つ目は、YAMAHAの電子ピアノ。これは二十年以上前に父が購入したもので、姉が幼い頃ピアノを習っていたときに使われていた。しかし姉は通っていたピアノ教室を一瞬で辞めたため、それ以降、単なる置物としてリビングの一角にひたすら鎮座していた…のだが、都会でちょろっと鍵盤技術を身につけてきた弟により見出され、近頃は私の遊び道具となっている。キータッチが本物のピアノをほぼ再現しており、音色も申し分なく、スピーカー内蔵、スイッチひとつで弾き始められる手軽さも兼ね備えているのだけれど、父の家にあるので当たり前だが父の家まで行かないと弾けない。基本的に祖父の家にいたい私としては、これは致命的。

というわけで、だからこそ私は第四のキーボードが欲しいと思っていたのだった。スピーカー内臓で、スイッチひとつで弾き始められる手軽さ、本物のピアノに近いキータッチ、クオリティの高い音色、どこへでも持ち運べる軽量さ、これらの特長を兼ね備えた最強のキーボードはどこかにあるのだろうか。あるのならば、欲しい。キーボードでも、いつでも好きなときに弾き語りができる自由を、私に与えてほしい。