8月2日(月)

腹が痛くて昼から寝ていた。せっかくの休日だったが、仕方ない。警報が発令されるほどの猛暑だったということもあって、どうせ外には出られなかった。五時過ぎ頃に目が覚めると、腹の具合は少し良くなっていた。様子を見ながら適当に夕飯を済ませる。冷や飯があったので、温めて卵かけご飯にした。

 

八月になった。これだけ暑いと、さすがに日中は冷房を付けなければいけないのかもしれない。夜はまだときどき吹いてくる外からの風が気持ち良いと感じられるくらいだけれど、昼は頭がぼーっとしてとてもではないが活動できない。

とくに私は車がないので、外に出るには自転車に乗るしかない。このくそ暑い中さすがに自転車に乗って外に出ようとは思えない。天気予報によると明日の最高気温は三十七度に達するそうだ。完全に回復しきっているとは言えない状態で明日以降も乗り切っていかなくてはならない。大丈夫だろうか。

 

健やかな精神は健やかな身体に宿る。精神の健やかさとは何か。それは、目の前に広がる現実、それ以上のものを思考したり想像したりできる力のことだと思う。昨日はまだ余力が残っていたのでブックオフに行ったのだが、自分が昔ハマっていた漫画を読んでみたら、懐かしさとともに頭の中がグワーッと掻き混ぜられるような感じがして、ああ、作品に触れるってこういうことだったよなあ、と久しぶりの感覚に浸った。世界観が刷新される、というか、世界に対する認識が鮮明になる、というか。パソコンでいうところの、キャッシュクリアみたいな。

日常を生きているだけではどうしても置き去りにされてしまう微細な感覚というものがある。日々の生活の中ではなんとなくしか感じられないもの。わざわざ言葉にするほどでもないようなこと。言葉にしようにも、なんと言ったらいいのか分からないようなもの。そこを捉えて表現する。表現しようとする。そうした表現に触れると、触れたこちらまで、作者と同じ水準に引き上げられるような気持ちになる。

なんというか、具体的な次元と抽象的な次元を行ったり来たりすることが大切なのだろう、と思う。日々の具体的な生活のなかに、人間とは何か、生命とは何か、生きるとは何か、そういう壮大なテーマが隠れていて、それを忘れないようにしておくにはさまざまな形で想像力を外部から供給していかないと足りないのだと思う。

 

傷付いた血管に血小板が集まってかさぶたになるみたいに、精神の破れたところに言葉が集まって塊になる。私たちはその塊のことを自分自身の姿だと錯覚してしまうけれども、もしかしたら塊の下で塞がれている血、もしくは傷そのものが、私たちの実際の姿なのかもしれない。

ぜんぜん関係ないけど、常々そういうことを思っている。