7月26日(月)

継続して書くはずだったが、気が付くと数日サボっていた。一日はあっという間に過ぎていく。とにかく書くこと。書いて出すこと。中身は問わない。形式さえ問わない。ただ日付とともにある一定量の文章が蓄積されていくこと。そういう風にして書くなかで見えてくるものがきっとあるはず。

この日記とはべつに数年前からnoteでブログのようなものを書いているのだが、あちらはなにか「完成品」としての文章を描かなければならないというプレッシャーを無意識に感じてしまって、一時期からどんな風に文章を書いたらいいのか分からなくなってしまった。私は文章を書くのが苦手だ。手紙やメールや気心が知れているはずの友人とのLINEでさえ、文字を打つのに異様に時間が掛かり、かつ、書き終えても自分の書きたかったことが書けたという実感が乏しい。

おそらくコミュニケーションのために書く文章というのが苦手なのだと自己分析している。私にとって文章とはまずモノローグなのであって、なんというか、そもそもこうして文章を書くということが、他者に対して開かれているという気がしない。そういう実感を持ち得ない。

 

日記を更新し続けている同年代の人文系研究者の人のスペースを聞いていた。横浜在住なのだそうだ。ああやって夜間に気軽に出歩ける場所があるのは羨ましい。徒歩圏に繁華街があって、雑多な人々の中にいつでも気安く入っていけるのは、やはり都会ならでは。いまの生まれ育った地方での生活に不満らしき不満はないけれど、やはりたまに気晴らしにどこかへ出かけてしまいたいという欲望はある。だからといって都会で暮らしていたとしても、バーやクラブなどを遊び歩くということはなかっただろうが。

人生が固定化されていくこと。それは喜びであると同時に退屈でもある。一時期の急場を凌いである程度生活にゆとりを感じることができるようになったのはありがたいことだが、それはその間に棚上げしてきた問題と向き合うということでもある。自分の人生をどのように生きるのかという問題。自分が大切にしていきたいものは何かという問題。

差し当たり生きていくこと。そのようにして日々が流れていくこと。それらは何も悪いことではないのだけれど、何かが鈍麻していくようでもある。余計なことを考えるということが、人間の人間たる、私の私たる、苦しさでもあり面白さでもあったのではないか。近頃の私は思い悩むということがない。

直近で悩んだことといえば、最近ずっと頭の一角を占めているピアノ問題の関係で、1万4000円の中古の電子ピアノを買うかどうか迷っていることぐらいだ。二十歳の頃の私はもっと壮大なことで悩んでいたはずだった。膨大な可能性の中から何を選んで生きていくべきか。一度きりしかない自分の人生をいかに生きるのか。あれから八年経った私は、瑣末なことに気を取られて人生というものの全体を見ようとしていないのではないか。かといって若い頃の私が、瑣末でなかったかというとそういうわけでもなかったけれど。

瑣末かどうかという意味では、つねに一貫して瑣末だったのかもしれない。同級生とどんな話をしていいか分からないとか、結局そういうものの蓄積が私を壮大な問いに向かわせていたのだとも言えるから。

 

今日は件のピアノを買うかどうか迷い、迷っているうちに眠くなり、昼寝をしているうちに一日が終わった。連休最後の休日だった。夕飯に食べたとろろがうまかった。