タウンワーク

何回目になるだろう、タウンワークを見ている。父との約束で、私への仕送りは来月から完全に途絶える(送られてきたとしても受け取らない)ことになっているので、いよいよ本格的に仕事を探さなければならなくなった。巻で暮らすことを考えると、家賃2万+水道光熱費1万+食費2万+通信費1万+その他1万と考えて、最低でも月に7万円は稼ぎ出さなければならない。私が今までの人生で稼いだことのある額は月に4万8千円が最大なので、あの頃の苦労を上回る苦労をしなければならないのだと思うと本当に先が思いやられる。今はまだ祖父母の家に居させてもらっているので生活費の問題はないけれど、やはり早めに家から出たいので、今月は精神科に通いながら現実的にその準備を始めていきたいと思う。

求人票を見ていると、まるで中学生の頃の部活動紹介みたいだなあと感じる。映っている写真の顔が皆、揃えたように笑顔で怖い。「上下関係のはっきりしている集団に下っ端として入っていく」という経験は、思えば小学生の頃からずっと苦手で避けてきたけれど、そのツケが今になって顕在化しているように思う。たかだか一年か二年先に生まれたからって何が偉いんだろうと、入った部活で全然先輩を敬えなかったことを思い出す。私は中学生の頃、イケイケな感じの友人たちが入る華やかなサッカー部に自分も入ろうとしたものの、仮入部で「これは確実に仲間外れにされる」と察知して、仕方なく内心馬鹿にしていた卓球部に「どうせおれは…」と思いながら入ったクチなのだが、あの頃の切なかった心境が今もときどき思い出されて、胸にくる。たぶん私はその時から何も進歩していない。あの時、私はどうすれば良かったのだろう。あれから十年経ち、今もまだ私はその答えをタウンワークの中に探している。

精神科の医者は、私の社会不適応の原因をADHDだと疑っているみたいだけれど、私は自分でそうは思っていない。人格形成期に染み付いた他者との距離感や世界に対する信頼感、そうした必ずしも適切とは言えない認識の枠組みが、現在の自分の認知を歪めているのではないかと思っている。私はきっと他人に拒絶されることを怖いと思いすぎているのではないか。そして出会った人すべてに対して、自分のことを良く知ってほしいと思いすぎているのではないか。長い間、私は誰も自分のことなんて理解してくれないという孤独に苛まれながら生きてきた。現に、それは真実なのかもしれない。人と人とは絶対に分かり合えず、ただ互いに自分にとって都合の良い姿を相手に投影し合っているだけなのかもしれない。でも、そう思いながら私は、何をしてきたんだろう。やはり腹の底からそう思うことに耐えきれなかったから、勇気を振り絞って他者の前に立ち、自分の気持ちをぶちまけながら手探りで信じられそうな何かを一つ一つ見つけてきたのではなかったか。今の私になら、働くこともできると思う。働けないと思ったら「やっぱり働けませんでした」と正直に謝ればいいだけのことなのだから。中学生の頃の部活と違って、限られた選択肢の中から選ばなければいけないわけでも、強制的にどれか一つの部活に入部しなければいけないわけでもないのだから。

近況

一昨日、久しぶりに友人と卓球をしたのだが、その疲労と筋肉痛で昨日は家の中でジッと何もしていないこととなった。月初めなので、WiFiがない祖父母の家にいてもまだ3G回線でネットを堪能することができる。私はここ一週間見逃していたバイオハザード7の実況動画を見尽くすことにした。少し前までは、グロテスクなゾンビ映画やホラーゲームの何がどう面白いのか全く検討がつかなかったけれど、ここ数年で趣味嗜好に変化が起きてきて、すっかりR15指定の作品の魅力に取り憑かれてしまった。あれらはたぶんグロいからこそいい。グロさに自分の内面の負の部分を投影して、それを銃なりバールなり斧なりで破壊するからこそ爽快感が生まれてくるのだ。現実世界は複雑だから、世の中や自分の人生にいくら不満があったとしても、わかりやすい「悪」を叩けばそれだけで問題が解決するというようなことはない。それに比べてゾンビゲームは単純だ。ゾンビは倒すしかない。攻撃しなければ攻撃されるだけだから、ゾンビに対する攻撃はつねに正当化される。バーチャルな世界の中でくらい、自分の心に蓄積した澱のような感情を吐き出しても許されるだろう。少なくとも現実世界にそれを持ち込むよりは。私はスマホの小さな画面で、振りかざす斧を、倒される戦士を、噴き上がる血を見ていた。そうして一日が終わった。

今日は、2回目の精神科受診の日だった。ちなみに起きたのは午前11時。卓球の疲れが昨日休んだだけでは解消しきれなかったせいか、それとも持ち前の過眠体質のせいか、一階の祖母に「もうすぐ叔母さんが来るよ!」と声を張り上げられてようやく目が覚めた。私が家族に「朝起きられないんだよね」と相談すると「体内時計が乱れてるんだね」と言われるけれど、それにしても、こうも体内時計は乱れたままなものだろうか。私は自分が睡眠障害やら過眠症やら起立性調整障害やらなんかそういう病気なんじゃないかと疑っている(そうであって欲しいと思っている)。自分の意志が弱いせいだとは、やはりどうしても思えない。前回も書いたけれど、私の場合、寝起きの挙動は自由意志と呼ぶにはあまりにもお粗末な意識状態なので、自分でどうにかしようと思って行動できるような状況では本当にないのだ。しかしそうも言ってられないので起床に関してはまた自分なりに試行錯誤していくことにする。詳細は後述する。

目を覚まして布団を畳み、服を着替えて白飯と味噌汁をかき込むと、玄関に叔母の姿が見えてきた。最寄りのコンビニでコーヒーを買い、叔母の車で病院へ向かう。自分よりも年齢が上の人と世間話をすると、そういやおれももう大人なんだったなと実感する。とりわけ政治や宗教について話が及ぶと、それぞれの人に、軽く話した程度では変わらない、ある程度固まった意見や価値観があるということを再認識する。私が生きている世界というものは、そういうものだったのだ。大人になるということは、自分の信じる価値や思想をそのまま言い放って終わりにするのではなく、むしろそれを腹の底に収めたまま、現実的な他人との関わりを粛々と模索していくということなのかもしれない。私はまだ自分が子どもだと思う。そしてその想いは、何かを感じたり考えたりする上でとても大切な意識だと思う。でも、きっとそれだけでは生きていけない。子どもの心を抱えながら、大人として生きていくこと。目指さなければ大人にはなれない。

一時間半かけて行われた心理テストは、意外にも楽しいものだった。初診のときは、大して話もしていないのにいきなり身に覚えのないADHDを疑われてなんとなく釈然としなかったのだけれど、何がきっかけであれ、これほどみっちりとした心理検査を受けられたのは良かったと思う。しかも、まだあと二日ある。占いやら、就活の自己分析やら、たまにSNSで流れてくる安っぽい心理テストやらとは比べ物にならないほど頭を使うしっかりとした検査だった。頭を使うのは楽しいもんだなあ、と久しぶりに思った。

例えば「今から言う数字を覚えて繰り返して下さい」というような質問をされた。最初は「2、9」という具合に簡単なのだが、だんだん数が増えて「3、2、8、6、4、9、1、5」とかになってくるとかなり苦しくなる。こうして文章にすると伝わりにくいかもしれないが、口頭で一度に言われただけの内容を瞬間的に記憶するのはとても難しかった。「今から言う数字を逆から繰り返して下さい」という問題もあったが、難しすぎて笑えてきた。結果はまだだけど、私はこういうのが苦手な性質なのかもしれない。問題は他にも「日本三景を言って下さい」とか「カードを並び替えて物語を完成させて下さい」とか「模範通りに図形を組み立てて下さい」とか様々だった。

朝、爽やかに目を覚ますことができないせいで、一日の全てもとい人生の全てが台無しになっているような気がしてならない。祖父母の家に来てからもう一週間以上経つけれど、相変わらず起床するのは正午近くの日が大半を占める。今日はどうだろう。おれはこのまままた三度寝するのだろうか。それとも耐えるのだろうか。時刻は9時41分。

朝起きられないとはいえ、いつもiphoneの目覚ましは8時と9時にセットしており、アラームとともに何度か目を覚ましてはいる。問題は、目を覚ますけれど、そこから身体を起こすところまでいかないということにある。布団の中で目を覚ましただけのときの私は、通常の意識状態とは比べものにならないほど異常なまでに睡眠欲が膨れ上がっており、何はさておきあともう少しだけ目を瞑って身体を動かさないでいることがこの世で最も大切なことのように思えてしまう。そして再び眠りに堕ちる。誰しも道端に「どうぞもらっていってください」と書かれた1億円入りのキャッシュバックが置かれてあったら躊躇いなく拾うだろうけど、それに近いくらいの必然性で私はもう一度眠るという選択肢を反射的にチョイスしてしまう。この絶大な欲求を振り払うことでしか、私の一日もとい私の人生は始まらない。正午までに起きられなかった場合、私は一気にその日一日を大切に過ごそうとは思わなくなってしまう。二度寝、三度寝、四度寝くらいまでの、それぞれ5秒、合計15秒くらいの短い間の中でなんとか、あのあまりにも甘美な欲求を自力で振り払わなければらない。身体を起こしたとしても、あの欲求ほど魅力的なものに出会えるとは限らないというのに。これは麻薬のようなものだ。私の一日はどうしてこんな始まり方をするのだろう。目が覚めてからのたった数秒の間に、このまま何もせず睡眠の中に溶けていく快楽に溺れるか、それとも目を覚ましてときに苦痛を伴う現実を生きるか、その厳しい選択を迫られる。そんなの所詮人間なんて快楽に従って生きているだけの存在なんだから快楽選ぶでしょそれはと思う。つらすぎる。他の人も、朝こんなに大変な想いをして目を覚ましているんだろうか。どうもそうじゃないような気がするのは私だけだろうか。私の中にあるなんらかの病的な何か、身体のバランス的な何かが原因なのではないか。あの欲求を意志の力で断ち切るのはあまりにも困難に思えて仕方がないのだが。しかし今はまだ10時3分。マシな方だマシな方だ。起きようじゃないか今日は。だ!

精神科

叔母に連れられて精神科に行ってきた。が、今のところ全くピンときていないので、やはり今後とも変わらず自分で自分を救う方向性でやっていくほかないような気がしている。というわけで、病院から帰った後、私はいつものように図書館に行って本を借りてきた。世の中に適応して生きていくことはもちろん大切なことだけど、適応することばかり考えていると何のために生きているのか分からなくなってくる。何のために生きているのか分からない状態で、働きに出ていくことは可能なのだろうか。金を稼ぐということは、金で買えるものを誰かに売るということだ。公務員の家系に生まれたからか、私は自分が何かを売るということのイメージが付かない。物欲もそれほどないので、どうして人がそれほどまでに何かを買いたいという気持ちになるのかもよく理解できない。生活していくだけの金があればそれでいい。しかし生活するにも金がいる。金を稼ぐには何かを売らなければならない。何も売るものがない私は、何かを売っている人の手伝いをして、その売り上げから余った分の金を分けてもらうしかない。野菜を売ったりテレビを売ったり薬を売ったり冷蔵庫を売ったりしている人の手伝いをすることで、その分け前としての金をもらう。その金で自分に必要な何かを買う。そうしなければ生きていけない。

しかしそう考えると、生きていくためには金を稼がなければならないという想いに込められた必死さと、「この白菜おいしそうだなぁ、今夜は鍋にしよう」と思うその気持ちのなんてことなさが、どう見ても不釣り合いに思えてきてしまうのは私だけだろうか。かたや、生きるために金を稼がなければならない金を稼ぐには何かを売らなければならない何も売るものがなければ何かを売っている人の手伝いをしなければならないと思って何かを売っている人の手伝いをしている人がいて、かたや、その何かを「なんとなく」買いたい気分になってそれを会計まで運んでいく人がいる。そのアンバランスさはなんなんだろう。鬱になるほど苦しみながらそれでも金を稼ぐために仕方なくこれを作って運んで売ってる人がいるんだよな…とは思わずに私たちはお菓子を買うしジュースを買うし洗濯機を買う。そういうことなのだろうか。というようなことを考えてしまうから私はバイトをする気すら起きなくなるんだけど、それはそれでよくない。でも考えてしまうのは仕方がないから、考えながら素知らぬふりして愛想をふりまく、そんな器用さが私にあったらよかったなあ。死ぬほど考えてるのに、何も考えてないフリをしながら仕事場のルールを覚えたり実際に身体を動かして作業したりするのを、私は何時間くらい耐えられるんだろう。休憩時間に考えたことをブログに目いっぱい吐き出したりすれば少しはまともに働けるんだろうか。わからない。

(更新中)

独り言

最近意識するようになったのだけど、私は一人でいるとき、それはもうよく独り言をしている。あまりにも一人でいろんなことを話しているから、その要領でネット配信とかやってみたらいいんじゃないかと思ってツイキャスライブ配信をしようと試みた(けど恥ずかしくなっていつも数秒で閉じる)のも一度や二度のことではない。そのくらい独り言をしている。たまに街で独り言をしながら歩いている人とすれ違うと気味が悪くて思わず蔑みの視線を送ってしまうことがあるけれど、たぶん私も何人かからは蔑まれながら街を歩いているのだと思う。話したいことは山ほどある。でも似たようなことを考えている人はそんなにいない。だから私は独り言をする。ブログを書くのも独り言みたいなものだ。

私は他人と話すのがそんなに得意ではない。とくに電話をかけるのが苦手だ。今、私は自分から電話をかけなければならない案件をいくつか抱えているのだけれど、明日しよう明日しようと思いながら全くできていない。他人との話し方が分からなすぎてマクドナルドで注文することさえできなかった数年前に比べれば、今の私はかなり他人と話ができるようになった方ではあるけれど、よく考えたら私にはまだまだ社会生活を送っていく上で困難をきたすような部分がある。ていうか、だからこんな感じの生活になっているのだった。

私は、自分の思考回路の中を生きていくことしかできない。その中で最適な行動を選択していくことしかできない。でも思考回路自体になんらかの欠陥や偏りがあった場合には、もう手の施しようがない。「考えているばかりでは何も変わらないよ」みたいなことは死ぬほど言われてきたし、自分でもその通りだとは思うけれども、でも、そんなことを言われてもやっぱり何も変わらないのだった。思考で思考を変えることはできない。それは自分の思考回路そのものが、思考以外のものに依存しているからだ。

と、そんなことを考えていたら、一階から「おーい、おばあちゃんいねかなー」という祖父の新潟弁が聞こえてきた。階段を降りて祖父の話を聞くと、祖母がどこにもいないという。「トイレにいるんじゃない?」と私が言うと、「いやいないんだよー、居間に行ってもいなかったし」と祖父が言う。見ると現にいなかった。私はすぐ近くの祖母の化粧部屋を見た。いた。髪をとかしている祖母と目が合ったので、事の顛末を話す。「じいちゃんが、ばあちゃんがどこにもいないって言うから(探してたよ)。ばあちゃん、徘徊してるんじゃないかって」と私が言うと、「私が徘徊したら終わりだこって」と祖母が言う。皆で笑う。かつては威張り腐っていた祖父が最近認知症になったおかげで、祖父母の家にいてもこんな笑いが起こるようになった。深く話をしようとすると必ずしも意見が折り合わない私たちだけれど、こんな形で笑い合えるのならそれはそれでいいのかもしれないな、と、ほんのり思った。

祖母の話によると、叔母の決定で、来週の月曜、私はカウンセリングに行くことになったらしい。さっき、電話しようと思っているけどできないと書いたのは、実は心療内科のことだった。叔母らしい、と思う。意外な形でカウンセリングを受けることに決まったけれど、決まったからには行ってみようと思う。自分では、こういうことはやはり自分で決めるべきだとずっと思ってきたけれど、でも、きっとこのままの私では決め切れなかっただろう。変えよう変えようと思っても、変わらない。変わらなくてもいい変わらなくてもいいと、そう開き直ろうとしても、腹の底からは思い切れない。自分で自分を支えていくのは大変だ。もっと他人に頼れるようになりたい。

(更新中)

考え抜いた末に、自分の人生に一筋の光が差してくるなんてことは、たぶんない。私が一人でいるときに、意識せずにぼんやりと考えてしまっているようなことは、大方、私の精神が剥き出しになるのを避けるようにするために作り出された防御壁のようなもので、その中にいる限り、考え方を変えることも行動パターンを変えることもない。それはおそらく私だけのことではない。皆、生きている間に知らず知らずの内に作り上げた自分の壁からなるべく外に出ないようにしていて、そして、いつしか自分が壁の中に入っていることさえ忘れて死んでいくのだ。「本当にこれで良かったのだろうか」という気持ちと、「いや、こうするしかなかったのだ」という気持ちと、その両方の間で揺れながら、なんとか自分の人生を納得しようとし続けていく。

私には、コミュニケーションが得意だとされている人たちもまた、何かの壁の中に引きこもっているように見えるときがある。他者を自分の想像の及ぶ範囲で勝手に解釈することで、自分の壁が壊れることを恐れている。相手の壁を壊すことはあっても、自分の壁が壊れることはないと思っている。自分を守るために作り上げた壁によって最も苦しんでいるのは自分なのに、それを必死で守るような行動を無意識の内に選択してしまっている。自分で壁を壊すことができない。

 

ゆったりと生きていくことはできないものだろうか、と思う。生きていくためには働かなければならない。働けないのなら心療内科に通わなければならない。と、それ以外の思考回路はどこかに存在していないものだろうかと思う。誰も、そちらから率先して自分の壁を取り払ってくれる人はいない。私は、自分が他人と話すことが苦手なのか得意なのかよくわからないけれど、自分の壁がそれほど確固たるものでないためか、どのくらいの熱量で他人と話すのが適切なのか、よくわからないときがある。話してはいけないことと、話してもいいことの区別があまりつかない。例えば初対面の人とでも「いやあなんで生きているんでしょうかね」なんて話ができそうな気がしてしまう。

そういえば、昼過ぎに起きてきた祖父が、「なんで生きているのかわからない、ただ死ぬのを待っているかのようだ」とつぶやきながら、さっき、リビングに降りてきた。部屋掃除を手伝いに来た叔母とワイドショーを観ている祖母は、そんなこと言われても困ると言わんばかりに、「もっと楽しいことを考えて生きたらいいのに」とあっけらかんと話す。私には、その場のいる全ての人間が、壁に入っているように見えた。本当に問うべきことを問わず、本当に感じていることを感じていないふりをして、金正男が暗殺されたことだとか、どこかの高校生がいじめを苦に自殺したことだとかの話をしながら、それなりに楽しく、それなりに穏やかに場をやり過ごす。私には何が正解なのかわからない。ただ誰もが自分の壁を破壊されることを恐れ、そして、そのことによって生きているということの実感から遠ざかっているような気がした。

 

祖母と話をする。おもしろいと思ったのは、80を過ぎても、90を過ぎても、一人になったときに思い出すのは子どもの頃の記憶ばかりだということだった。やはりそうかと思った。認知症になり、いま何をしようとしていたのかを忘れ、ときどき「死にたい」とさえ漏らす祖父も、食事をしながら祖母にぽつりと話をするのは、子どもの頃の辛い境遇についてだと言う。祖父は、戦後の混乱した時代状況の中を、食うために生き、生きるために耐え、そして最終的には組織の頂点まで這い上がった男だった。私と話が食い違うのは、それは仕方がないことだと思う。昨夜「これからどうしていくつもりなんだ」と、祖父は私に説教を食らわしたけれど、私もまた私で自分でもよくわからない説明をしてしまったように思う。でも、これからどうやって生きていけばいいのかなんてわかるはずないじゃないか。私も祖父も壁の中にいた。

終始噛み合わない議論の果てに、私は、捨て台詞のように「おれだって、死のうと思ったことくらい何度もあるよ」と、祖父に言った。祖父は何も言わずのそのそと部屋を立ち去った。働いていようが働いてなかろうが、私が、私たちが話すべきことはもっと本質的なことなのではないだろうかと思った。そう思うのは私がまだ若いからだろうか。しかし、金を稼いでさえいれば、どんな生き方をしていても良いと言うのだろうか。けれどそう問うことは許されない。そこまで言うなら自分で寝床を確保し、自分で食事を用意し、自分で必要なものを全て手に入れなければならない、と、そう言われるのだろうから。

 

可能な限り繊細に世界を感じ取ろうとすること。絶対に分かり合えないはずの他者に寄り添い、その声に耳をすませること。金…。金は、ほしい。金はほしいけれど、でも本当にほしいのはそれだけじゃない。そう思うのは私がまだ未熟だからなのだろうか。

〈更新中〉

自分の人生を語ること

低賃金の仕事で生活することや、インフォーマルな仕方で紹介されることが多い職をそもそもみつけることは、家族や家族のように付き合う仲間がいない場合、途端に難しくなるからである。

家族との関係が強いことは、たしかに悪いことではない。しかし一方で家族に恵まれていない人もおり、また家族に依存せざるをえない生活が逆に不幸な争いを生むこともある。


だとすれば、「家族」との関係を補う、または代替する制度やコミュニティをいかに作り出していくかが、流動化した労働環境では鍵になるといえよう。親の家を出て暮らすための低廉な公共住宅、より利用しやすい育児や介護サービス、または趣味を介した幅広い付き合いなど、家族の枠を離れた制度や関係性の土台が充実して初めて、転職や起業も綱渡りではなくなるのである。

地方都市の「非正規雇用」急増と格差拡大〜安定を望むことはできるか(貞包 英之) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)

さっき読んだ記事である。私がどうして働くことに上手く乗り出せないのか、どうして経済的な自立がとても困難なことのように感じられるのか、その、世の中的な事情がよくわかる記事だった。情報は力だ。世の中を正確に把握し、変えるべき所は変えようとする心が、前に進んでいこうとする自分自身を支えてくれる。

さて。私も今更こんなことは言いたくないのだけれど、父のことについて書く。一昨日の出来事もあり、私は自分が未だに父を激しく憎んでいるということを認めないわけにはいられなくなった。現実の私を直視しようとせず、いつまでも亡くなった兄や母のことばかりを考えて悲観に暮れる父。他人を批判するばかりで、自分自身の内面を決して見つめようとしない父。一人になると激しく不安に駆られるくせに、私の前では「ちゃんとした大人」を演じて高圧的な態度を崩そうとしない父。感情に任せて私を侮辱し、時が経つと一転してすがるように甘えた謝罪の言葉をかけてくる父。話すにつれ、次第に眉をひそめ、声を荒げ、感情のコントロールを見失い、私の言葉を受け入れず、冷静に会話を運んでいくことができない父。私は昨日、自分の人生をかけて真正面から父と向き合おうと試みたのだが、父によってそれは完全に裏切られてしまった。目の前にいる私を頑として受け入れようとしない父の未熟さを、私はありありと感じてしまった。父の前に私が立つと、父にとって私は話し合いの余地のない単なる異常者になってしまうようだった。私は虚しかった。一人の人間としてもう関わるに値しないと思った。私は、化膿して爛れた自分の内面を切り開き、現実の他者へ向けてつまびらかにしていくことを恐れたりしない。それをことごとく恐れているのが、父だった。

一昨日、新発田ジャスコのラーメン屋で、私は泣いた。車の運転中、また些細なことで口論になると、いつものように父は「俺たちはもう一緒にいちゃダメなんだって」と繰り返した。父は「変わりたくない」と、私の前で宣言しているようだった。父が私について語ることは、今ここに生きている私には、何の関わりもないことばかりだった。父はまたいつものように眉をひそめ、気色の悪い目付きをした。口調はどんどんヒートアップする。私は「おれの目を見て話せよ」と強い口調で父に迫った。そして父の話を聞きながら、その虚しさに思わず泣いた。父は困惑しながら「お前は何をそんなに恐れているのか」と尋ねた。私は「お父さんに怒られることだよ」と呆れながら言った。父は「そうか」と言って、ため息をついた。言葉の節々から、私と本気で向き合おうとしていないことが、伝わってきた。私は虚しくなって、家を出た。人をこんなにもはっきりと見損なったのは、初めてだった。

私は2歳の頃から新潟県新発田市に育った。幼少期に兄と母を亡くし、祖父母の家の二階、六畳二間の部屋に父と姉と私で暮らしていた。私は生活の至る所に自分の家庭環境の不自然な点を感じていた。職場の愚痴を延々と祖母に語り続ける父。そんな父を冷たい視線で見つめている祖父。祖父がその場を離れると途端に陰口を叩き始める父と祖母。祖父と一緒にいると表情がこわばる祖母。祖父や祖母や父の、私と姉に対する扱いの違い。祖父は私に優しく、姉には厳しかった。祖母もまた私に甘く、姉にはぎこちなかった。父は私に素っ気なく、姉に優しかった。私と姉はときどき二階の隅で、それぞれが家族に対して感じる違和感をこっそりと話し合っていた。子どもだった私には、他にどうすることもできなかった。

学校で、私は優等生だった。それを祖父は嬉しがり、家族の中で私だけは祖父に気に入られていた。私は子どもの頃、祖父によく懐いていた。しかし同居している父と祖母と姉の誰もが祖父に嫌われ、祖父を嫌っているらしいことに勘付くと、私は子ども心に自分が祖父と仲良くすることが、家庭内において自分の身を危うくするのではないかと思うようになった。彼らにならって、私は祖父との距離を置くようになった。祖父が私の頭を撫でたあるとき、私はそれを手で振り払った。拒否された祖父は激昂した。私はそうなるとわかっていた。たしかに祖父は他の誰もが言うようにヘンだった。思い出せばそれまでも、私に対する祖父の態度には気味の悪いものがあるような気がした。姉を女性だからと言って見下していたこと。カタカナすら分からないのかと、まだ子どもであるはずの私にキレたこと。ある日、祖父が私の長袖の中に手を入れて「こうすると温かくなるぞ」と私の腕をさすられたことがあったけれど、子どもながらに祖父との身体接触に対してなんとも言えない嫌悪感を抱いたこともあった。祖父は怪物のように扱われ、そして現に怪物だった。家の主でありながら、他の誰からも冷遇されていた。

祖母は、家庭の中でクッションの役割をしていた。自分の意見を主張せず、祖父からの暴言を吸収し、父からの愚痴を吸収し、親族からの相談を吸収した。祖母と私は二人きりで話すことが最も多かった。私は祖母からさまざまな話を聞いた。暴言を浴びせかけられながらも、祖父の父(祖母からすれば義父)を介護した過去。大家族なのに末っ子だった祖母だけが母を介護した過去。幼い頃に父を亡くしたこと。母を大切に思っていたこと。私だからこそ話せたと、そう言ってくれたこともあった。若かりし祖母の淡い恋。失恋からの祖父との出会い。当初からずっと夫婦仲が良くなかった最悪の結婚生活。そしてハキハキした叔母と、ウジウジした父が産まれた。父が女に、叔母が男に産まれれば良かったのに、と、祖母は今でも私によく言った。私には、祖父と祖母と父と叔母の家庭のことは知る由もないけれど、わずかに知っていることは、全て祖母から聞いたことだった。

父とは幼少期から今に至るまでほとんど血の通った会話をしたことがない。小学生の頃、合気道を習っている父に技をかけられて、腕を痛めたことがあった。私は恐怖を感じて、それを祖母にチクった。姉と喧嘩し、私は姉に何かを投げ付けて怪我をさせたあるときには、父は事情を聞きもしないで私を怒鳴りつけた。その時にはおぼろげだが、首を絞められたような記憶もある。父はずっと短気だった。ショッピングモールへ行くと「家族連れを見ると、死んだ母や兄のことを思い出すから…」と言って、家族で外出することを控えがちだった。まれに外出したにときでも、自分の思うようにいかないことがあるとキレて、私と姉を置いて帰って行ったこともあった。父と一緒にいて楽しいと感じた思い出はほとんどない。私が優等生だったことも、それほど好ましくは思っていなかったようだ。精神的に傾き始めていた高校生の頃、私の生活が荒れているにも関わらず学業成績は下がっていないことを、父が不思議そうに祖母に話していたのを私は聞いていた。父は人によって態度を変える。私に関することを祖母や姉の前で話し、姉に関することを祖母や私の前で話した。他人と正面から目を合わせて腹を割った話をすることができない。父にとって祖母だけが心の支えだった。祖母は父を甘やかした。甘やかしてきたと、私によく話した。父も祖父も祖母も人によって話すことや態度を変えた。私にはそれが理解できなかった。

高校生の頃から、私に対して父はよく「怠惰」「自堕落」という言葉を使って責め立てるようになった。父に対して私の気持ちが受け止められることは一度たりともなかった。子どもの頃の私の夢は警察官だった。父と祖父が警察官だったからだ。しかし姉は、そういう風に親に認められようと振る舞うのは好きじゃないと、私に言った。私は自分を恥じた。私は父にずっと認められたいと思っていたのだった。将来について悩む私に父が何か助言を言えば、私は「ああそうかもしれない」と思ってそれに従った。様々な局面で、私は祖父や祖母や父の期待に応えようと思っては、失敗してきた。自分の意志で、自分の考えで決めていないのだから、当然だ。私は家族に繊細すぎるとよく言われる。違う。繊細でなければ生きられなかったのだ。私と姉以外の大人たちがみな鈍感すぎたのだ。自分の中の闇を見ようとせず、他人を変えることばかりを求めて、根本的な解決を先送りにし続けてきた。私はそれが不満だった。

祖父と父は亡くなった母方の祖父母(本間家)と折り合いが悪く、その点だけにおいて意見が一致していた。祖母もまた祖父と父に同調して本間家を嫌った。祖母はいつも私の味方をしてくれたけれど、しかし誰の味方でもしたのだった。私と姉は、夏になると母方の祖父母の家へ遊びに行った。しかし家に帰るとなぜか祖父と父の機嫌が悪い。あるとき、帰ってきた私たちは祖父に呼び出されて「お前は本間彰人なのか稲村彰人なのか、どっちだ!」と激昂されたことがあった。意味がわからなかった。祖父と父の論理では「おれたちは孫と一緒に生活して負担があるのに、あいつらは孫と遊ぶためだけに来る。媚びるために金も与える。孫もあいつらに懐くだろうが、それは都合が良すぎる」というようなことだった。たしかに本間家では、稲村家の悪口のようなものも聞いたことがある。しかしそれは概ね当たっていた。異常に短気な祖父や父の性格がそうだ。けれども本間家の祖父もまた性格が荒っぽかった。事情は詳しく知らないが、要は短気な大人の男たちが喧嘩して気まずくなっているというだけの事だった。過去にケリをつけるため、成人してから一度、私は一人で約20年ぶりに彼らの家を訪問しに行ったことがある。母方の祖父は認知症になっていた。私のことは覚えていなかった。母方の祖母は病気で顔が黄色くなっていた。最初、彼らは私に気が付かなかったけれど、祖母が私を思い出してからは「こうして生きている内に会えるなんて嬉しい」と、そう懐かしげに言われると共に、また、稲村家の悪口を聞くこととなった。私は反論した。育ってきた稲村家も、そして生き別れのようになった本間家も、どちらが悪くどちらが良いということはない。私たちは何も知らなかった。つまらない大人の事情に子どもを巻き込んでほしくなかった、とそう言った。私は連絡先を置いて立ち去った。あれからずっと音沙汰はない。昨日、祖母に聞いた限りでは、去年の秋頃、彼女は亡くなったらしい。思い出せば思い出すほど、私は子どもらしくいられない子ども時代を過ごしてきてしまったのだな、と思う。しかし、私は今まで非があるはずの父や祖父や祖母を、真正面から恨むことさえできなかった。深く話をしようとすると全てが母の死や兄の死のせいにされてしまった。現に大変だったのだろう。苦しかったのだろう。しかし、それは私には分からない。そしてだからといってどうして私が苦しまなければならないのだろう。

私の人生には、私が物心つく前に起きた母の死と兄の死が、いつも影のようにつきまとっていた。私は母を知らない。兄を知らない。しかし祖父も父も祖母も姉も、彼らに対して何らかの悲劇的な記憶があった。母や兄について、私は祖母からよく話をきいた。乳がんに侵された母が祖母に「私、助かりますよね」と尋ねると、もう手遅れかもしれないと思いながらも祖母は「絶対に助かるよ」と答えるしかなかったのだという。私が生まれる前は父も母方の祖父母と仲良くしており、時期的に母の死と兄の死が重なったことで、家の中は激しく混乱していたそうだ。生前の母は厳しく、兄は活発だった。しかし私はそれを知らない。

私は父に自分の悩みについて話をすると、最終的にはいつも亡くなった母や兄の話にすり替えられて、私は父を慰めることしかできなくなった。初めて子どもを持った父は兄の扱い方が分からず殴ってしまったこともあったらしい。兄は父に懐かなかった。兄は近所の不良とつるむようになった。ある日、兄は不良と不良の親とともに川へ出掛けた。そして、溺れて亡くなった。父は不良の親を憎んでいた。しかしそもそも私は兄を知らない。父の悲しみも、その後の家族の苦労も知らない。父からはよく話を聞かされた。いかに大変だったか。いかに苦しかったか。子どもを育てるためには働かなければならない。金を稼がなければならない。ある日、父に尋ねたことがある。そんなことを言っても残された子どもたちの成長は楽しみでしょう、と。亡くなった兄や母だけでなく、私たちも愛していたのでしょう、と。そう子どもの私が尋ねたのだった。しかし父は答えなかった。答えられなかったのだと思う。私たちは、悲しみに暮れる父たちにとって、負担だった。そうとしか感じられなかった。

私には、父や祖母や祖父に気を遣って言えなかっただけで、本当は思ってきたことや感じてきたことが山のようにある。しかし、それは誰にも言えなかった。誰にも言えないことが、私には多すぎた。今、子どもの頃の自分を呼び覚まし、そして、もう一度その自分を生き始めようとすると、どうしても家族の問題にぶつかってしまう。私は自分がおかしいとは思わない。何事もなかったかのように、全てを弥縫策で包み隠そうとする家族の方がおかしいと思う。彼らにとってはそれでよくても、私にとってはそれでよくなかった。他者と継続的な信頼関係を築いていける力を、たとえ誰かに否定されても自分の意思を貫き通していける力を、物理的に最も近くにいた、「私のことを心配している」人たちの手によって奪われてきた。彼らは私の何を知ったつもりでいたのだろう。

 

と、長々と書いてきたが、私はまだまだ止まるつもりはない。私は一度、自分の中に巣食っている毒を全て出し切る覚悟でいる。それまでは止まれない。

あなたは「正しい親」をイメージできますか - シロクマの屑籠

そこへ、今の私を少し立ち止まらせてくれるような記事が流れてきたので、話は軽く逸れるが添付しておく。俗流毒親論に対する批判である。たしかにいずれ落ち着くところに落ち着くときには、こういう論理になるだろう。しかし結論を急いではならない。表面的な解決を目指してはならない。徹底的な対立があって初めて根本的な解決に至る。私は子の論理を貫き通して徹底的にぶつかっていく。

私は親に正しさを求めていない。むしろ「正しさ」にがんじがらめにされて正論を振りかざして来る父や祖父の存在が苦しくて仕方なかった。彼らの論理を内面化していた時は自罰的になっていたけれど、私は私の論理を生きるべきであり、それは場合によっては父の論理とぶつかるということだ。私は、他でもない私の人生を生きている。たとえ自分の人生を語ることで父たちの傷を掘り起こし、そして過去の悲しみや苦しみを思い出させたとしても、それはもう仕方がないことなのだ。私は私の気持ちを語る。私は私だ。 

 

今になって私は、どうして自分が世間で言う所の引きこもりになったのか、その理由をなんとなく理解することができる。私は、子どもの頃からずっと感じ続けてきた違和感を誰にも口に出すことができなかった。そしてそのことが他人と信頼関係を築いていくときに大きな障害になっていた。友人と遊んでも、心療内科で薬をもらっても、いつも胸の隅で虚しさを感じ続けていたのは、ずっと私が私自身の人生を語ることができなかったからだ。自分さえ自分の気持ちがどこにあるのか分からず、他者に向かってどんな顔をしたら良いのか分からなかったからだ。私は、あえて、ずっと誰にも言えなかったことを、誰にも読める場所に書く。そうすることによって自分を救う。この文章をここまで読んだ人はどれほどいるだろう。そして、それはどこに暮らし、どんな人生の物語を生きてきた人なのだろう。しかしこれを読む人が誰であれ、私の目の前に立つ人が誰であれ、私にとっては自分の気持ちや、自分の人生に対する解釈を更新していくことの方がずっと大切だ。私は自分の気持ちしか分からない。自分の人生しか分からない。

 

私は自分の人生がうまくいかないことを他者のせいにしているという意味で未熟だ。経済的に依存しているという意味でも、生活面で依存しているという意味でも未熟だ。もう24歳にもなろうというのに、と、何度批判され、何度馬鹿にされてきたことだろう。しかし父は、俺にもっと金があれば(私を一生面倒見られるのに)、と祖母に漏らしたという。そうではないはずだ。祖父も父も祖母も、本当の意味で私の自立なんて望んでいない。批判できる対象を、自分の孤独から目を逸らさせてくれる存在を求めている。私が変わらなければ、誰も変わらない。だから私は家族から離れたかった。地元を捨て、自分の心にだけ従って生きていきたいと思った。しかし戻ってきてしまった。

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