#17

‪メールの末尾。「お体を大切に」と「風邪には気を付けて」が混じって「お体には気を付けて」と書いて送ってしまった。お体に気を付ける、とは何のことを言っているのだろう。相手は何をどうやって気を付ければいいのだろう。ギリギリ意味は伝わるにしても、なんというか、もやっとした感じは拭いきれない文面になってしまった。要件を伝えた後に、最後に一言、気を利かせて相手の健康を気遣う言葉を添えたつもりだったが、これでは逆効果だったかもしれない。迂闊だった。これだからメールは難しい。

もし送り直せるとしたら「お体をたいせつに」と書き直したかったなあ、とふと思う。「大切に」をあえて「たいせつに」と書くことによって、どこか自然な柔らかさを醸し出せるようにしたかった。どうだろうか。少しあざといだろうか。冷静になって考えると、なんだかあざとい、というか少しサムいような感じがしてきた。なんとなくワザとらしくて、むしろ嫌な感じさえする。どうすれば良かったのだろう。やっぱりここはふつうに「大切に」と書けば、それで良かったのかもしれない。というか別に「お身体には気を付けて」でも問題ないような気がしてきた。なにより、こうやってグチグチと細かいことを気にしている方がよっぽど良くない。語れば語るほど墓穴を掘っているような気がする。問題はそういうことじゃない。気持ちが込もっていればなんだっていいじゃないか。

なにはともあれ、メールを書くのは難しい。奥が深い、と言った方が適切かもしれない。他人と面と向かって話すときは、相手の目付きや表情や声色や態度から相手と自分がちゃんと噛み合って話しているかどうかをなんとなく察することができたつもりになれるけれど、手紙やメールの場合はノーヒントだ。暗闇の中に自分を投げ込んでいくような気分になる。なれなれしくもなく、よそよそしくもない、その絶妙なラインを見つけ出すのが難しい。対面のときでさえ難しいのに、顔が見えないともっと難しくなる。間合いを間違えると、どこかで必ずしっぺ返しを食らう。自分の知らない所で審判が下され、自分の知らない所で自分の株が下落していく。生きるというのはいつだって孤独との戦いだ。そこを見誤るとかえって余計な苦労が増える。

どんなに長く、どれほど親密に同じ時間を過ごしたことのある人でも、一人で過ごしているときに何を思い、どんなことが考えているかまでは分からない。他者が他者であるということはどこかに必ず自分では絶対に窺い知れない部分を持っているということだ、と何かの本で読んだことがある。分からないものに触れるのは怖い。怖いから、分かったつもりになろうとする。目の前に相手がいるときは、醸し出す雰囲気を通じてなんとなく相手を分かったような気になる。けれど、本質的に他者は暗闇だと思う。メールや手紙を書くときにこそ、その暗闇の片鱗に触れるような感じがある。何を考えているか分からない。どんな気持ちになっているか分からない。そんなよく分からない存在に対して、自分からアプローチを取っていく。

 

話は変わるけれど、数日前の夜、布団にもぐって天井を見上げていたら、ふと「もしこの天井一面に大きく人間の顔が描かれていたら、さぞかし怖いだろうな」と思った。きっとその表情は、怒っているのでも悲しんでいるのでもなく、何を考えているか分からない無表情に近い顔をしていた方が怖い、ような気がする。もしも私が絵が上手かったら、何を考えているか分からない不気味な人間の顔を、巨大な紙にものすごく写実的に生々しく描いてみたかったなと思う。「誰かに見られているかもしれない」という気配を感じると、急に背筋がゾッと寒くなる。そんな絵が天井にあったら、気味が悪くて眠れないだろうなと思う。

 

そういえば、子どもの頃、夜九時以降も居間でテレビを観ていると、祖父がしつこく怒鳴り続けてくる、ということがあった。私と姉が居間でテレビを観ていると、廊下の方から「トントントン」と祖父が階段を降りてくる音が聞こえてくる。しばらくすると勢いよくドアが開いて、なんとも言えない表情をした祖父が「今日は勉強したのか」といきなり訊いてくる。「してないよ」と答えると途端に不服そうな顔になり、即座にドアを閉め、今来た道を戻っていく。その一連の行動が、私たちが居間を出るまで何度も繰り返された。

回数を重ねる度に祖父の顔は歪んで、口数は少なくなっていった。いきなりドアが開いたかと思うと、すぐに無言でドアが閉まる。開いたドアの隙間から、一瞬、睨みを効かせた祖父の表情が垣間見える。そのときどんな顔をしていたか、今はもう思い出せない。

「癇癪を起こす」ということを地元の方言では「ごっしやける」と言う。祖父はよくごっしやける男だった。そうやって祖父を無視し続けていると、次第に祖父はごっしやけて、階段をトップスピードで降りて来ては、ドアを猛烈な勢いで開けたり閉めたりするようになる。叩き付けるようにドアを閉めて、怒鳴り散らしながら廊下を走り去っていく祖父に「そんなに勢いよく閉めたらドアが壊れるでしょうが!」と、姉と二人で半分茶化しながら噛み付いていたことを思い出す。私はあのとき、怖かったのだろうか。たしかに怖かった気もするけれど、それ以上に不気味さみたいなものを感じていたかもしれない。自分とは全く違うように生きている人間に触れたときに感じる不気味さ。どうしてそんなに怒れるのか、子どもながらに不思議だった。今でもまだ分からない。人はあんな風に怒れるものなのだろうか。言いたいことがあるのなら、言葉で説明してくれたらいいのに。祖父は、それができない男だった。

とにかく祖父はヘンな男だった。しかし、ふとしたときに思い出す。社会的には成功した男だったようだが、幸せとは程遠い所に生きていただろうと思う。けれど、それも本当のところは分からない。祖父には祖父にしか見つけられない幸せがあったのかもしれないし、なかったのかもしれない。祖父はどんな世界に住んでいたのだろう。とはいえまだ存命なので、訊こうと思ったら訊けるのだが。

#16

この一週間ほど、体調があまり優れない。最初は軽い喉の痛みからはじまって、鼻水、鼻づまり、痰、それに倦怠感。そのせいで気分が落ちているという訳ではないけれど、朝、目が覚めたときに喉の奥がヒリヒリと乾燥しているのを感じると「まだ治ってないのかよ」とうんざりした気持ちになる。でも、鼻声のときの自分の声は好きだったりする。だるさを風邪のせいにできるのもお得感があったりする。体調なんて悪くなくても基本的に毎日をイキイキと過ごしているようなタチではないから、傍目から見たら、私の雰囲気はきっとそれほど変わらないだろう。

今朝は、小学校の頃のクラスメートたちと美術館のような場所へ見学に来ている夢を見た。そこに並んでいる絵画にはどれも見たことがないほど色鮮やかな模様が描かれていて、不思議なことに、毎秒ごとに色や形が変わっていった。万華鏡を覗き込んでいるかのような美しさが、そこらじゅうを満たしていた。触れるとまた模様が変わる。私は、壁に並んだ絵や、出入り口付近に置かれた土産物に次々と手を触れながら歩き、それらが一つ一つ鮮やかに色や形を変えていくさまを楽しんで眺めていた。すると、近くで友人Mと友人Kが口論をしているのが見えた。私はそれぞれの肩を持ちながら喧嘩の仲裁に入り、そして(夢の中ではありがちなことだが)いつしか宙を浮いていた。空中で寝そべりながら、私は辺りを見渡した。外はどしゃ降りの雨が降っていた。それから友人らとともに、傘を差して美術館を出た。

深夜、何度も目を覚ました。風がごうごうと強く鳴っていた。七時半、布団から起きて台所へ向かうと、今朝出すはずのダンボールのゴミが家主の手によってすでに片付けられていた。先を越されてしまった。ゴミ当番を任されているからこの家に置かせてもらっているようなものなのに、今日は役目を果たすことができなかった、と、思いながらノソノソと布団に戻ると、またすぐに眠りに落ちた。九時半、ふたたび目を覚ますと、辺りは一転して静けさに包まれていた。時折鳴く鳥の声に混じって裏の雑木林が風でサラサラと揺れる音が聞こえてくる。私は布団から身体を起こして、パソコンを開いて日記を書いた。朝食にきな粉と蜂蜜を混ぜたヨーグルトと、昨夜作っておいたスープを温めて食べた。

#15

何かの雑誌に掲載されていた、哲学者の國分功一郎さんと千葉雅也さんの対談で「人間には『心の闇』が必要だ。今の世の中は、本来は闇に隠れているべきはずの心の内側に光が当てられすぎている」というような話が語られていたことがあった。「心の闇」という言葉はふつう良くない意味として使われる。けれど、そこでは若干違うニュアンスで話されていた。

どういうことか。詳しい内容を覚えてないので、ここで迂闊なことを書くわけにはいかないのだけれども、そこで言われていた「心の闇」とは、どうやら「何か具体的な行動を起こす前に心の中に湧き上がってくる、その行動の根拠になるような気持ち」、つまり「動機」のようなもののことについて言っているらしかった。

本来であれば、何かの行動を起こす前に「なぜそうしたいと思ったか」なんてことを自分で説明できなくてもいいし、する必要もない。私たちは、いつもいつも、何かを「やりたい」と思う気持ち(動機)がまず最初に心に巻き起こってから行動に移る、という順序を辿るわけではないからだ。知らぬ間にやっていたこと、やっているとなぜか心が落ち着くこと。「やりたい」と思ったから「やる」、という単純な構図で、自分の行動や今の状況を説明しきれない場合はたくさんある。(むしろ「動機」は実際に何かに取り掛かってから、後付けで語られることの方が多かったりする。)

なのに今の世の中では、たとえば企業の面接などで、なぜ自分がその選択をしたのかを、いわゆる「志望動機」というものを通じて、事前に理路整然と説明するよう求められたりする。そうでなくても、進学や就活やさまざまな他人と関わりの中で「これからあなたは何をやりたいのか」と尋ねられる場面はしばしばある。

自分が何をやりたいのかなんて分からなくて普通だ。考えれば考えるほど分からなくなって当然だ。自分の「ほんとう」の気持ちは外に出そうとすればするほど、どこまでも闇に隠れていく。けれども表の世界では、それを容赦無く「明らかにせよ」と迫られる。すると当たり障りのない言葉で無理矢理にでも説明するしかなくなり、いかに目の前の相手にとって通りの良い文句をそつなく話すことができるか、という不毛な営みに巻き込まれることになる。動機なんて分からなくてもいいし、説明できなくてもいい。人間の心なんて、そもそもよく分からないものだ。闇に光を当てることより、より豊かな闇を持とうとすること。長くなったけれど、冒頭の話を私はそういう意味として受け取った。

 

現代は、「とりあえず皆、これを信じておけば大丈夫」みたいなものがどんどん消えていって、良くも悪くもそれぞれが自分で自分の信じられる価値観を採用して生きていかなければならなくなった。既存の価値観を信じられない人は、既存の価値観に対抗する価値観を信じるようになるかもしれないし、それすら信じられない人は自分でオリジナルの価値観を作ろうとするかもしれない。いずれにせよ、大変なことだ。

信じられる何かを自分以外の誰かに求めているうちは、自分よりも輝かしく生きているように見える人たちの間を、いつまでもさまよい続けることになる。かといって、それを自分自身の内側に求めはじめると、「たしかな気持ちはどこにあるのか」という答えの出ない問いに絡め取られて、どこへも身動きが取れなくなる。どうやって生きていけばいいのか。その答えは人の数だけあって、自分の答えは自分で作っていくしかない。違うと思ったら壊してまた作り直す。その繰り返しだ。

そういえば、最近は「どうやって生きていけばいいのか」なんて大それた疑問に頭を掻き回されて、にっちもさっちも行かなくなるなんてことはあまり無くなった。きっと目の前に「やるべきこと」があるからだろう。掃除、洗濯、皿洗い、玄関の落ち葉を掃いたり、庭の枯れ草を抜いたり、メールを返信したり、知人から頼まれた用事を終わらせたり。やるべきことがあるというのは幸せなことだと思う。

自分が何をやりたいのかは、私にはまだ分からない。もしかしたらずっと分からないのかもしれない。ただ、どうやって生きていけばいいか分からなくても、今こうして生きているというのはきっとたしかなことだから、生きながらでも考えていけばいいのではないか。と、そんな呑気なことを考えられるくらいには、それなりに生きているなと思える日々を送っている。

#14

放っておけばセーターは伸びるし、あちこちに毛玉が付いたり、生地が痛んで穴が開いたりする。髪の毛だって放っておいたら伸び放題になって、もみ上げやら襟足やらが乱雑にはみ出してみっともなくなったりする。私の髪は天然パーマだから、伸びたらなおさらひどい有り様になる。髭だって放っておいたら汚らしくまばらに生えてくるし、好き放題に食べていたら腹にはじゃんじゃん肉が付く。

身なりに無頓着な私は、今までそのほとんどを「あるがまま」にして、気にしないようにして生きてきた。少し大袈裟だけど、そもそも身体なんてものが自分に付いていただろうか、と、そんなことを思うときさえあった。頭の中で色んなことをもやもやと考えたまま放っておくと、まるで自分が脳の中でだけ生きているような気分になってくる。脳だけで生きていけたらどんなにラクだろう。目と鼻と口と耳と、あとは手か足が一本ずつくらいあればそれで十分ではないか。腹も胸も背も腰も使わなければ邪魔なだけだ。そんな風に思うこともあった。

大人になると、髪型や服装についていちいち他人に口出しされなくなる。結局は人それぞれの好みの問題だし、個人的なことだから無闇矢鱈に触れにくい。不快だなと思われても、不快だよと伝えてくれる人はいない。自分の知らない場所で、あれは不快だったね、と言われるだけだ。他人に不快感を与えていたとしても、基本的には放っておかれる。不快感を与えないようになりたいけど、そんなことばかり気にしていたら自分の感受性を全く信用できなくなるから難しいところだ。

子どもの頃は、髪の毛が耳にかかるくらい伸びてくると、父に「浮浪者みたいだな」と軽口を叩かれたものだった。子どもだった私に「浮浪者」の意味は分からなかったけれど、なんとなく「それはマズいことなんだな」と感じ取って、いつも仕方なく床屋に連れられて、されるがままに髪を切られた。爪が伸びたから、切る、みたいな感覚で髪を切った。

床屋へ行くと必ず「どんな髪型にしますか?」と訊かれる。それがなによりもイヤだった。なんて答えたらいいのか分からなかったので、いつも決まってしどろもどろになった。いまだにそれは変わらなくて、床屋へ行くと自分がどんな髪型にしたいのかをいちいち答えなければならないから、次第に私は外へ髪を切りに出掛けなくなっていった。今はバリカンを買って自分で適当に刈り上げている。服にしても、無印良品ユニクロかそこらの手頃なスポーツ用品店で買った地味な洋服を、いつも何の工夫もなく、寒さを凌げればいいとばかりに、ただ着ている。

先日、私が着ていたセーターを「パジャマみたい」だと指摘されたことがあった。たしかにヨレヨレになってはいたが、自分としては着心地もいいしまあいっかというぐらいのセーターだった。が、どうやらそんなことも言ってられないらしかった。的確な批判の声は下手な褒め言葉よりよっぽどありがたい。貶されるのには慣れている。べつに確固たる自分の美意識で髪を伸び放題にしたり適当な服を着ているわけではないから、貶された上で指導してくれるなら非常に助かる。これは甘えなのだろうか。自分としては自分の外見にまじでなんのこだわりも、なんの思い入れも込めていないから、外見で自分を判断されると非常につらいものがある。けれど、世の中を渡っていくにはそんなことばかり言っていられないのだろう。そんなことくらい私も知っている。目に見える部分でしか人は人を判断できない。

というか、そんなことよりも、貶されるのには慣れているなんて軽々しく言ってしまって、私はそんなんでいいのか、という問題がある。他人を跳ね除けてでも主張したい何か、これだけは譲れないと思える何か、自分のプライドを掛けられる何かは、ほんとうに私の中にないのだろうか。ナメられることに慣れすぎてやしないか。下手に出ておけばとりあえずなんとかなると思いすぎてやしないか。まずは身なりを整えるところから、他人前に出しても恥ずかしくない自分というものを作っていきたい。

  

人はなんのために髪を切ったり、服を装ったりするのだろう。オシャレに気を配っている人を見ると、カワイイとかカッコイイとか以前になんとなく「強そうな人だなあ」という印象を受けることがある。他人の視線を惹きつけるような魅力を持っている人は、その魅力を持つがゆえに、逆に他人を容易に近付けさせないような雰囲気を漂わせる。もしかしたら人は、強くなりたいからオシャレをするのではないか。ナメられたくないから自分を着飾るのではないか。ありたい自分であろうとすることに、他人の口を挟ませない。そこに強さが滲み出るのではないか。

なんだかよくわからない文章になってしまったけれども、11月はこんな感じで自分の身なりに多少なりとも気を配る月間にしていきたい。まずはビリーズブートキャンプによるダイエットを引き続き行う。それから今度、無料でカットモデルを募集している美容院を探して、気合いを入れて乗り込んでみようと思う。美容院に対する苦手意識を打ち破りたい。今の自分ならオシャレな美容師に話しかけられてもビビらずにいられるのではないか。気が向いたら行ってみよう。

#13

5日目のビリーズブートキャンプを終え、駅前のタリーズまで足を伸ばした。時刻は午後3時4分。少し大きめのBGMに紛れて、右隣に少し離れて座っている女の子たち二人が、とりとめもない話をしているのが聞こえる。英語の勉強をしているのだろうか、机の上には何冊かの本とノートが広がっている。けれど少し前から二人の会話は途切れることなく続き、「いつもはなんとなく見ているけど『デザイン』って街中に溢れているんだろうなあ」とか「私ってすぐに他人の話に感心するから、たぶん宗教とかにすぐハマっちゃうかもしれない」とか「私って赤紫色が好きなんだあ」とか、どうでもいいことをひたすら話している。私はそれを聞き流しながら、バックに入れていた書きかけの絵を途中から書き始めてみたり、もう飲み干したコーヒーカップの底に残っているカフェラテの泡を少しずつ口に流し込んでみたり、駅前のバス停に並んでいる人たちの様子を眺めたりして時間をつぶす。全身はぐったりと疲れて、眠気で少し頭が重い。今日の夕飯は冷たい蕎麦にしよう。昨日買ったネギは、たぶんまだ冷蔵庫に残っているはずだろう、と、そんなようなことを考えながら、ただなんてことのない時間が過ぎていく。

都会にいようが田舎にいようが、出歩く先として思い浮かぶのは、いつもチェーンの喫茶店か図書館かベンチのある公園だ。せっかく都会にいるんだから、なにかもっと「ここでしかできないような体験」をしてみたい、とも思うけれど、そもそもここ数日はあいにくの雨で室内にいることが多かった。そんな中、最近は、ビリーズブートキャンプで心の病を克服した経験があるらしい家主の影響で、空いた時間にビリーの動画を流して、ひたすら筋トレに励んでいる。おかげで寒さに身を縮ませる暇がない。

55分のトレーニングを終えると、ただでさえ汗っかきの私は、にわか雨にでも打たれたかのように全身がずぶ濡れになり、しばらくまともに歩けないほどズタボロになる。しかしまあ衣食住を賄われているのだから、これくらいの疲労を引き受けなければ釣り合いが取れない。おまけに健康的に日々を送れるのだから有り難い限りである。このペースで続けていれば、じきにスリムだった頃の自分に戻れるかもしれない。まずは「みてくれ」から自分に変化を起こしていこう。人間中身も大切だけれど、表面的な部分もそれはそれで大切だ。

 

第一印象が全て、というわけではないけれど、人と人の関わりにおいて、最初の「つかみ」はかなり重要なんだなあと思う。最初の感触で、その人が今までどんな風に他人と関わってきたのか、とか、最近の調子は良いのかとか、そうでないのかとか、さまざまな事柄が推測できる。近頃はそれに加えて、フェイスブックツイッターなどでプロフィールや過去の投稿などを目にすることもできるから、会う前からその人のだいたいの雰囲気を掴んだ気になれてしまう。書きながら不安になってきたけれど、私は大丈夫だろうか。他人に対しては冷徹な視線を向けているくせに、自分のこととなると途端に無防備になる。フェイスブックはもう何年も投稿していない。どうにかしないと、と思いながら、放置している。

話が逸れた。さてこんなことを思うのは、最近、知人の家で催されたイベントの手伝いのようなものを経験したからだった。集客力のある家主はイベントを開くと多くの人が集まってくる(イベントなど開かなくともこの場所はいろいろな人が訪れてくる)。その日も雨で道が悪かったというのに、十数名は初めて顔を合わせる人が家に訪れた。私は単なるスタッフなのでほとんど出る幕はなかったが、メールや電話で参加者の方とやりとりして、お茶や座布団を出すなど軽く応対のようなことをした。第一印象がどうのこうの、という話は、その際に感じたことだった。

私はメールのやりとりが得意ではない。相手の表情が見えない状況で文字だけで会話をするというのは、目隠ししながら相撲を取るようなものだ。と、一応書いてみたけれどいまいちいい喩えが思い付かない。とりあえず、相手の顔色を伺いながら会話の糸口を探っていくタイプの私には、文面だけのやりとりはヒントが少なすぎていちいち慎重になってしまう。一人でいるときの相手がどのような気分で過ごしているのか分からないから、どうしてもよそよそしくなるというか、慇懃無礼と思われても仕方がないくらいどこかぎこちなさのある言葉遣いになってしまう。自分でもそれがベストだとは思っていないけれど、毎回じっくりと時間を掛けて、ひとまずこれが最も無難なのではないかと思える文面を送るようにする。

 

しかし中には、そういう私の身構えをいきなり正面突破しようとする連絡が来る。ところどころに絵文字や顔文字を用いて、全体的にこってりとした印象を与える文面。ほとんど話したことがないはずなのになぜか馴れ馴れしい文章。それはそれで構わないのだけれど、「自分とは違う世界観で生きているんだな」と思うくらいには距離を感じる。逆に、自分と同じかそれ以上に丁重な連絡をくれる人には「そろそろお互い『いい大人ヅラした演技』をするのはやめませんか」と言わんばかりにふとした拍子で打ち解けることがあって、うれしくなる。「これが俺のスタイルだ!!」と、自己主張をどこでもかしこでも貫くのは、カッコ良さもあるが、押し付けがましさもある。良いように言えば青臭く、悪く言えば品がない。こんなブログを公開している私が言うのもなんだけど、何かを誰かに見せるときには、どこかに奥ゆかしさというか、控えめさみたいなものを自戒として持っていたい。

 

とはいえ慌てて付け加えねばならないが、自分と距離を感じる人が「悪い人」であるはずがない。ただ私と「他人との距離感の取り方」が違うだけで、顔を合わせればみんな基本的には「良い人」だ。「良い人」「悪い人」という区別もよく分からないが、悪くなってやろうと思って悪くなる人はいない。自分と合わない人に「合わない」と言って切り捨てるのは簡単だが「合わない人」と会ったときこそ今の自分自身のあり方を見つめ直すきっかけにもなったりする。と、慌てて軌道修正したので唐突感が否めないまとめになってしまったけれども、とりあえずいろいろな人に揉まれながら、なにかと学ぶことの多い日々を今は過ごしている。自分を壊してまた作り上げる。その繰り返しの中を生きるしかない。

天パ日記について

人間には、最低でも三つの顔がある。一つは社会や世間などの不特定多数の「みんな」に向けて話す顔、もう一つは家族や恋人・友人などの特定少数の「なかま」に向けて話す顔、最後は自分で自分と向き合ったときに現れる顔。

「みんな」の中には多種多様な人が含まれる。当然ながら、自分に対して好意的に思ってくれる「なかま」だけが含まれるわけではない。だから、「みんな」に向けて話すときは「なかま」に向けて話すときより注意を払う必要がある。自分を立派に見せようとしたり、少なくとも信用できない人物だとは思われないようにしたり。他人前に出るからには、そのときの自分にできる限りの最高の自分であろうとするし、最低でも他人前に出して恥ずかしくないような振る舞いをしようと努力する。努力することが求められる。

しかし、そればかりでは疲れてしまう。「みんな」の前では、不特定多数の人からの評価の眼差しに耐えうるだけの「より良い自分」でい続けなければならない。しかし「より良い自分」は、自分の一部でしかない。「みんな」の前で「より良い自分」として振る舞い続けるためには、その他の自分の側面を気兼ねなく解放できる「なかま」の存在が必要だ。「なかま」がいてはじめて、「みんな」の前で、自分なりに努力した「より良い自分」の姿を保ち続けることができる。

「みんな」を「プロ」、「なかま」を「アマ」と言い換えても良いかもしれない。「仕事」と「趣味」の違いもこの構図に当てはまるかもしれない。「なかま」といるときに通用していたことが「みんな」の前では通じない。そういうことはよく起きる。「みんな」の前に立つときは、自分を好意的に思ってくれる「なかま」だけでなく、どれだけ多様な人々を「みんな」として想定することができるのか、その想像力が問われることになる。誰が見ているかわからない。「みんな」の中に含まれる一人一人は、それぞれ全く異なった別々の人生を生きている。自分とは決定的に異なる誰かの人生に対してどれくらい想いを馳せることができるのか、そこが問われることになる。

 

と、以上は就寝前の思い付きで書いた単なるメモ書きに過ぎないのだけど、最近考えていることを、わりとまとめられたような気がして少し嬉しい。そして、この前提があって初めて私は、いまの私が本当に言いたかったことを書き始めることができる。

私が言いたいのは、この天パ日記は、「みんな」に向けられたものでも、「なかま」に向けられたものでもないという話だ。私事になるが、最近になって、現実世界で当ブログの存在が話題に上ることがなんだか少し増えてきた。しかし私はこの場所を、不特定多数の人たちに向けて、他人前に出しても恥ずかしくないような「完成品としての文章」を発表する場にしたいとは思っていないし、自分を(基本的には)好意的に受け入れてくれそうな特定少数の人たちに向かって、ある種傷口を舐め合うような、互いに互いが「なかま」であることを再確認し合うような、馴れ合いの場にもしたくない。

私がやりたいのは、冒頭に書いた三つ目の顔、自分が自分と静かに向き合っているときにだけ現れる文章を、読もうと思えば誰もが読める場所にこっそりと置いておきたい、ということになる。だから、別に読んでくれてもいいのだけれど、誰かに読んでほしいがために書いているわけでは全くない。ほんとに全くない。もしも私がこれから「誰かに自分の書いた文章を読んでほしい」と思ったときは、より多くの人に読んでもらえるようにちゃんとツイッターとかにリンクを貼るし、それなりのクオリティになるようにちゃんと推敲に推敲を重ねるから、この日記に関しては別に無理して読んでくれなくてもいいし、そんなに読んでほしくもない。公開しておいてこんなことを言うのもアレなんだけど、その辺りを勘違いしてほしくない。

この日記に関しては、自分と対話し続けるというスタンスを徹底したかったから、こうやって自分のしたことを自分で説明するような話は今まで控えていた。でも最近、ちょっとその辺りの暗黙の了解みたいなものが崩れてきて、たいして親しくもない人から「ブログ読んでますよ!」という「うわあなんかちょっとあんまり嬉しくないな」と思うアピールをされることが増えてきた。私としては、べつに読まれても構わないのだけど、読んでくれたからといって特別嬉しいということはない。むしろ拙いながらも自分と一対一になって真剣に文章を書き切ってやろうという気概が削がれる感じがする。ここに書いてあるのは私の恥部だ。ここは私がたった一人でナイーブな感情をぼそぼそと吐露するだけのゴミ箱のような場所だから、できればそっとしておいてほしい。

 

でも、もしかしたらそうも言ってられないのかもしれない。読んでくれて嬉しい、と思うときもないわけじゃないし。やはり結局は、読んでくれている人がどんな人なのか、ということに尽きるのだろう。よくわからない人に読まれても、やはりよくわからない気持ちにしかならない。とはいえ、いつまでもこんなことばかりやってはいられないのかもしれない。もしかしたら私はもう少し読み手を意識したちゃんとまとまった文章を書かなければいけないのかもしれない。

 

そんな折、ツイッターで下のような投稿を見つけた。

すごくわかる。おれが目指しているのはまさにこういうことだったのだ。見栄にまみれた文章や、価値のある情報をまとめた記事なんて読みたくない。この世界で自分がたった一人になったかのような気分に浸れる文章が読みたいし、書きたい。誰かに向けられた文章ほどつまらないものはない。「みんな」に向けた文章には見栄が混じる。「なかま」に向けた文章には同調圧力を感じる。背伸びした自分を見せるのか、それともあえて露悪的に振る舞うのか、いずれにせよ自分に対する相手からの印象をコントロールしようとする浅ましさが透けて見える。それによって周囲からの視線を自分に引きつけようとするかのような文章を、私はここで書きたいとは思わない。それらを振り切って、せめて文章の中にいるときくらい、たった一人になっていたい。

#12

屋内にいるのに、空気が冷たい。こんな夜は考え事ばかりしてしまう。

 

 

一人にならないと文章は書けない。一人でいるときと誰かといるときでは、物事の考え方も世界に対する感じ方も、何かが微妙に違ってくる。その違いに敏感になりたい、みたいなことを考える。

誰かといることに慣れると、一人でいたときの自分が何を考えていたのか、少しずつ分からなくなってくる。一人で過ごしているときの自分が「ほんとうの自分」で、誰かと一緒にいるときの自分はそうじゃない、と、言いたいわけではない。けれど、目の前にいる人が楽しそうにしているときに、「自分はあんまり楽しくない」とわざわざ口に出して言うのは難しいし、なにより、目の前にいる人が楽しそうにしているのを見てこちらまで楽しくなってしまう、ということもある。誰かといる、というただそれだけのことで、考えなくても済む問題、感じなくてもいい事柄、見過ごしても構わないと思える違和感はたくさんある。

一人でいるときにどうしても気になって仕方なかった問題が、誰かに相談しているうちにだんだんどうでもよくなってくる、ということがある。他人の視線を気にして、ずっと一人で延々と悩んでいたことが、誰かの何気ない一言によって「なんてちっぽけなことに悩んでいたのだろう」と気が付く。悩みなんて最初はどこにもなかったのに、一人でいすぎてしまったがために自分で余計な悩みを作り出して、結果、自家中毒に陥ってしまう、なんてこともある。一人でいることが、ただそれだけで毒になることはよくある。誰かと一緒にいて楽しくなれるなら、それでいいような気もする。

でも。一人の人間が抱えているものが、誰かと一緒にいるだけで気にならなくなってしまう程度のものなら、文章も、映画も、音楽も、学問も、宗教も、存在していなくてもよかったと思う。偉そうなことは言えないけれども、あらゆる表現は、自分自身がこの世界に対してたった一人になっているときにこそ生まれてくるし、必要になるものなのではないか。最初から他の誰かに認めてもらうためだけに作られた「表現」は、見る人が見たらきっとすぐに見抜かれてしまうし、自分自身だって満足しないだろう。それくらいで満足できるなら、最初から多くの人がするのと同じように生きていればよかったはずだ。

自分は他の人と違う、と言いながら、違う、と言っている者同士で徒党を組めば、もともと自分が抜け出したかったはずの場所とほとんど同じ環境を作り出してしまう。自分にとって安心できる場所は、そこから離れて見ている人たちにとって、近寄りがたい外部でしかない。外部に対して自分をただ開くのではなく、むしろ自分自身の内側を徹底的に掘り下げることによって、全ての人が内側に持っているはずのなにか普遍的なものに触れたい。そんなことを考えていた。