#12

屋内にいるのに、空気が冷たい。こんな夜は考え事ばかりしてしまう。

 

 

一人にならないと文章は書けない。一人でいるときと誰かといるときでは、物事の考え方も世界に対する感じ方も、何かが微妙に違ってくる。その違いに敏感になりたい、みたいなことを考える。

誰かといることに慣れると、一人でいたときの自分が何を考えていたのか、少しずつ分からなくなってくる。一人で過ごしているときの自分が「ほんとうの自分」で、誰かと一緒にいるときの自分はそうじゃない、と、言いたいわけではない。けれど、目の前にいる人が楽しそうにしているときに、「自分はあんまり楽しくない」とわざわざ口に出して言うのは難しいし、なにより、目の前にいる人が楽しそうにしているのを見てこちらまで楽しくなってしまう、ということもある。誰かといる、というただそれだけのことで、考えなくても済む問題、感じなくてもいい事柄、見過ごしても構わないと思える違和感はたくさんある。

一人でいるときにどうしても気になって仕方なかった問題が、誰かに相談しているうちにだんだんどうでもよくなってくる、ということがある。他人の視線を気にして、ずっと一人で延々と悩んでいたことが、誰かの何気ない一言によって「なんてちっぽけなことに悩んでいたのだろう」と気が付く。悩みなんて最初はどこにもなかったのに、一人でいすぎてしまったがために自分で余計な悩みを作り出して、結果、自家中毒に陥ってしまう、なんてこともある。一人でいることが、ただそれだけで毒になることはよくある。誰かと一緒にいて楽しくなれるなら、それでいいような気もする。

でも。一人の人間が抱えているものが、誰かと一緒にいるだけで気にならなくなってしまう程度のものなら、文章も、映画も、音楽も、学問も、宗教も、存在していなくてもよかったと思う。偉そうなことは言えないけれども、あらゆる表現は、自分自身がこの世界に対してたった一人になっているときにこそ生まれてくるし、必要になるものなのではないか。最初から他の誰かに認めてもらうためだけに作られた「表現」は、見る人が見たらきっとすぐに見抜かれてしまうし、自分自身だって満足しないだろう。それくらいで満足できるなら、最初から多くの人がするのと同じように生きていればよかったはずだ。

自分は他の人と違う、と言いながら、違う、と言っている者同士で徒党を組めば、もともと自分が抜け出したかったはずの場所とほとんど同じ環境を作り出してしまう。自分にとって安心できる場所は、そこから離れて見ている人たちにとって、近寄りがたい外部でしかない。外部に対して自分をただ開くのではなく、むしろ自分自身の内側を徹底的に掘り下げることによって、全ての人が内側に持っているはずのなにか普遍的なものに触れたい。そんなことを考えていた。