菊名にて

スーパーで昼飯を済ませた。三割引きになっていた握り寿司と団子を購入した。合計530円。食べ終わったら忘れないうちに、先々月くらいから導入したiPhoneの家計簿アプリに値段を入力する。こんな額くらいケチケチせずに買い物することができたら、どんなに生きやすいだろうと思う。

さきほど服屋に立ち寄ったとき、良さげなセーターを見つけて数秒手に取ったのだが、値札を見て買うのをやめた。実家に冬服を置いてきているので、手元には冬服が一着しかない。新しい冬服を欲しいか欲しくないかと言えば、もちろん欲しい。ただ、わざわざ買うほど欲しいかと言われたら、それほどでもないような気がする。実家に帰れば服はある。寒さをしのぐためだけならば、実家に置いてある服で十分間に合うだろう。しかし、人はなにも防寒のためだけに服を着るわけではない。私も一応、人としてこの世に存在している者の端くれではあるので、気に入った服があれば身に付けたいと思う感受性は持っている。そうすると、私は実は無意識に買いたいのを我慢しているのかもしれなかった。自分を抑圧し、欲望に蓋をしているのかもしれなかった。無駄遣いをしないことも大切だが、良いものを良いと感じる心を錆び付かせないこともまたそれと同じかそれ以上に大切なことなのではないか。もしも私が経済的な制約で自分の心にゆとりが持てなくなっているのだとしたら、それこそまさに、貧すれば鈍する、というやつなのではないか。いろいろな思いが頭をよぎった。が、結局、買わずに店を去った。

金の心配をすることなく気の済むまで買い物をすることができたら、私はどんな気分になるだろう。きっとものすごく幸福というわけではないだろうけれど、今よりは少し街に馴染み、生活上の不便を感じることも少なくなるのだろう。

なければないで構わないけれど、あったらあったで嬉しい。金で買えるほとんどのモノはきっとそういうものだと思う。それがなければ生きられないというわけではないけれど、あると生きるのが楽しくなる。ケチで貧乏な私は「なければないで構わない」のだから何も買わなくたっていい、楽しみだってなくてもいい、と、ついつい生活を切り詰める方にばかり考えを向かわせがちだったが、そればかりやっていると日々の楽しみがなくなって、結果的に、心まで痩せ細っていきそうな気がした。ささやかな楽しみを生活の中に見出すこともまた、死なずに生きていくためには必要なことなのではないか。と、そんなことを最寄りのスーパーのイートインコーナーで無料のお茶を飲みながら考えていた。

喫茶店にて

14時4分。駅前の喫茶店に来た。レジにいた店員さんと目が合う。傘を畳んで歩み寄って「コーヒーを」とぶっきらぼうに頼む。声を発する寸前にアイスかホットか分かるように伝えた方がいいだろうかと一瞬思ったのだが、面倒臭くて言わなかった。が、案の定「アイスですか、ホットですか」と尋ねてくる。私は渋い顔で「ホットで」と返す。それから220円を渡してカップを受け取り、コップに冷水を注いで窓際の席に腰を掛けた。

座ってすぐに、喫茶店ってこんなに騒がしかったっけ、と思った。ここに来るのも随分と久しぶりな気がする。というか、そもそも私が今日この喫茶店にやって来たのは、こんなにも喫茶店に行くのが久しぶりに思えるなんておかしい。自分の中の何かが気が付かないうちにおかしくなっているに違いない、と、心のどこかで思っていたからだった。ひとりで過ごすのが当たり前だった頃の自分。朝から晩まで誰とも会わないのが普通だった頃の自分。あの頃の自分にあって、今の自分に無くなっているものは何なのか。自分の中から何かが欠けたのか、それとも何かが加わったのか。明らかなのは、今は闇雲にものを考えても仕方がないということだけだった。

四方から、話をしている人たちの声が聞こえてくる。無遠慮にその場に吐き出されていく声は、煙草の煙のように辺りへ広がって、ただこの場に漂う空気の質を下げているだけのようにしか思えなかった。

聞こえてくる話は、できれば耳に入れたくないものばかりだった。自分にとってはノイズでしかなくてもこの場所にいる限り周囲の声は構わず私の耳になだれ込んでくる。聞こえてくる音を止めることはできない。私は担いできたリュックサックの中から急いでイヤホンを探し出し、見つけるやいなや耳にはめた。これ以上、自分の中に異質なものを受け容れる余地はなかった。

 

 

雨が上がった。やはり空は晴れている方がいいと思う。入店してから三十分ほど経っただろうか。陽の光が、私の目の前に見える不動産屋の看板の一部を照らしていて、眩しい。階下には人々の歩いている姿が見えた。

気がつくとまた薄く空に雲がかかり、見慣れた駅前の風景に戻っていった。

銀座にて

17時47分。とある会議への出席を終え、コンビニのイートインコーナーで一息ついている。

集団が苦手だ。大人たちの集団がとくに。しかし、苦手だからといって避け続けていたら、いつまで経っても自分自身の人間としての幅が拡がらないではないか。そんなことを心のどこかで思っていたから、きっと今、私はここにいるのだと思う。

ここのところ体調不良で、朝から気分がまったく優れなかったのだが、義務感やら使命感やら色々なよくわからない感情を胸の中に渦巻かせながら結局私は電車に乗って、いつの間にか、月一でとある会議が行われるこの場所へ向かっていた。とは言っても、自分でも何の会議なのかすらよくわかっていないのだが、大人の世界ではおそらくこういうものには出席しておいた方がよいとされているのだろう。私はこの会の新参者なのだから、とくに何も話さなくたっていいはずだ。会場にはすでに十名ほどの人たちがいた。私も席に着く。

いつものように状況を俯瞰しながら、この場にいる人たちがどんな人で、それぞれが互いにどのような関係にあるのかを注意深く探っていく。そう、私のポジションはいつだってそうなのだ。一歩引いた立場から周囲の様子を見る。相手の出方を窺って、自分が飛び出すのに最良のタイミングを待つ。それが私の他人との距離感、これまでの日々の中で身に染み付いてきたスタイルだった。

何も間違ったことをしてないのだから、ドンと構えていればいい。心の中でそんな風に言い聞かせながら、私はひたすら皆の話を聞いていた。会議で話されている内容なんて、もはやどうだってよかった。この緊張をどうやって鎮めるか。胸の心拍をどう落ち着かせるか。いつだって私は私自身のことにしか興味がない。この緊張を味わうためにこそ、私はここへ来ているのだ。

 

たった数年前には、昼間から布団の中に潜り込んで延々と低いうめき声を上げ続けているしかなかった男が、いまや大人たちに混じって、銀座のとあるビルの一室で行われる会議に出席するまでになった。詳細な説明はまたの機会に譲るが、私は今、とある会の一員として、銀座に月に数回ほど、かねてより親交のある方とともに小さなカフェイベントを催している。開催初日を終えた日の帰り道、彼は私に「なんだか数奇な人生だよね」と、ぽつりと語った。本当にその通りだと思った。まさかこんなことになるなんて、たった一ヶ月前には思いもしなかった。彼の行動力がなければ今回の企画が始まらなかったのは言うまでもない。

これからの私の課題は、彼が打ち上げたこの企画を、自分自身がこれまで歩んできた人生にどのように引きつけて捉えるかということだ。これは、私自身にとってどのような必然的な意味があるのか。他者にとってどのような意味を持つのか。自分と他者、その間を繋ぐものとしてこの場所がどのような空間であるのが相応しいのか考えている。

人間としての幅を拡げること。今の私に課せられた課題は、簡単に言えばこの一言に集約される。もっと自分を試したい。そのためにはどうすればいいか。するべきことは分かっている、現実に体当たりをすることだ。それはつまり、他人の前で恥をかくことであり、自分が信じる価値を思い抜くことであり、失敗を覚悟して、行動した結果を自分で引き受けることだ。カフェイベントという体裁を取ってはいるが、当初、カフェであるということ自体にそれほどのこだわりがあるわけではなかった。自分が現実にぶつかっていく手応えを感じられるものであれば、なんでも良かったのだ。目の前の他者に誠実に向き合うこと。それしかない。

 

と、勢い余って勇ましいことを書いてはいるが、すでに書いた通り私の本領は周囲の状況を俯瞰しているときにこそ発揮されるものであるとも思っている。なんでもかんでも突っ込めばいい、というのでは私らしさが失われる。私である必要がなくなる。私の勝負ではなくなる。あくまでも私自身のやり方で現実と対峙したい。それがどのようなやり方になるのかは、きっとこれから現実の中で見い出していくしかないことなのだろう。

ひとまず今日は、やるべきことはやったと思う。具体的に何かを成し遂げたわけではないけれど、よくわからない達成感がある。このことの意味が今はわからなくても、この感覚さえ今の私の胸にあれば、きっと未来の私が何らかの意味をこの出来事に見出してくれるだろう。

大人と会うと緊張する。アウェイは特に消耗が激しい。この心理的負担が負荷になって自分がまたもう一回り大きくなってくれることを信じたい。

新横浜にて

12時44分。新横浜駅から歩いてすぐの場所にあるデパートの4階。そのフロアのベンチに腰を下ろして、今日の日記を書いている。

日記を書くのは久しぶりだ。いや正確には、あれからもずっとことあるごとに書いてきてはいるのだが、どうしても気持ちにストップが掛かってしまって公開ができなかった。腹が減ったとか、頭が痛いとか、今日は良い一日だったとか、日記を公開しなくなってからも何かを思わない日は一日もなかった。ただ、文章を書くというのはそんな風に、思ったことをそのまま吐き出せばそれでいいというような単純な行為ではない。断片的に思い付くさまざまなフレーズを論理的にひとつの文章にまとめ上げるという別の作業が必要で、それを行うには、のびのびと頭を働かせる余力がないとできなかった。

日記を公開する気にならなかったのは、書いた文章の内容を他人に読まれたくなかったというより、文章として成立していないものをこの世に存在させるわけにはいかないという自分なりの美意識のようなものが邪魔をしていたからだったのではないか、と今になって思う。やるからには恥ずかしくないものでありたい。そういう気持ちが自分の中にもあることを、最近、少しずつ自覚するようになってきた。今まで私は自分自身のことを引っ込み思案だと思い、これからもそうあり続けるだろうことに何の疑問を感じなかったけれど、それは自分なりの美意識のようなものがあまりにも強く自分自身を縛っていたからなのかもしれなかった。そんなようなことを考えながら、今日もぼんやりとなんでもない時間を過ごしている。こういう時間が最近の私にはもっと必要だった。

私の目の前には、しまむらがある。背中側にはcandoがある。冷静に考えたらここはデパートの廊下で、こんなにも長く腰を落ち着かせているような場所ではないはずだった。しかし、イヤホンから流れてくる音楽のおかげで、私は目の前の現実にはまったく目をやることなく文章の中に没頭することができている。ここがどこであろうと、私には何も関係がない。それに今の私が冷静に考えられていないかと言えば、そうではないような気もしている。私の目の前を通り過ぎていく人の誰よりも、私の方がよほど冷静にこの場所に存在しているのではないかという気がする。この場所から私は文字通り冷たく静かにこの世界の有り様を見つめている。こんな風に、この世界をずっと遠くから眺めているように過ごしている時間が、私は好きだった。

思いを誠実に言葉にしたい。でも、そうしようとすればするほど、目の前の現実からはどんどん遠ざかっていってしまう。例えば、この日記を更新していなかった間にどんな日々を過ごしていたのか、とか、最近はどんな風に生きているのか、とか、そういった類いのことを、主に知人や友人に自分の近況を知らせるために書こうという気持ちが、私にもないわけではなかった。けれどやはりそんなことは、文章を書いているうちにどうでもよくなっていってしまう。自由にものを思う私自身をすくい上げることができるのは、こうやって穏やかな音楽に浸っているときの自分だけで、それ以外のものは全て風景の奥に遠ざかり、いずれは消えてしまうだけのものに過ぎなかった。しなければならないことも、買いたいと思っていたものも、会いたいと思っていた人も、今の私にとってはどうでもいい。私にとって他人とは、きっとそれくらいのものでしかなかったのだ。そんなことを思うと、悲しいわけではないはずなのに、なぜか涙が滲んでくる。

少し寂しいくらいがちょうどいい。このくらいの寂しさが、この先も変わらず私の胸にあり続けていてほしいと思う。

公園にて

近くの公園まで歩いてきた。誰もいない夜の公園だ。道沿いを走る自動車の音、近くを通る電車の音、原付、バイク、自転車の音。夜だからといって静かというわけではなく、あちらこちらから今も活動している人たちの気配が聞こえてくる。ガタンガタンという電車の音。それが終わらないうちに今度は車道を走る自動車のタイヤの音、それからエンジンを吹かせて走るバイクの音。一つの音が止まないうちにまた新しい音が聞こえてきて、感じる世界はどんどん複雑になっていく。その音が何の音なのかを理解する前に次々と知らない音が重なって、最後には雑音としか判別できない塊になって耳に届く。そうかと思えばまたパタリと音が止んで、今度は遠くで虫の鳴く音が薄っすらと聞こえてくるだけになる。

近くの公園まで歩いてきた、と、さっき書いたが、正確にはそうではない。どうにも煮詰まっていた作業があって、気晴らしにアイスでも買いに行こうかと家からコンビニまでふらふらと歩いていたのだが、途中で気が変わり、ふと目に入った公園のベンチに適当に腰を下ろすことにしたのだった。公園まで歩いてきた、と書くと、なんだかこの公園に来ることを目指して歩いてきた、というように読めるかもしれないが、実際はそういうわけではない。ただなりゆきでここにいるだけだった。

気温はやや肌寒い。ここに最初に座ったときには、この気温ではあまり長くは居られないだろうと思ったものだが、結果的にはもう二十分近くもここに腰掛けていることになる。ここに座りはじめたのは、たしか21時40分頃だった。今は22時を回った。

 

できる限り正確な表現を心掛けようとすると、話が一向に前へ進まなくなる。ともあれ、私に書きたい話などなかったのだから、それでいいのかもしれない。

誰もいない夜の公園、と、さっき書いたけれど、来たときからちらほらと人の出入りがあり、十分ほど前から向かいのベンチに男性がひとり座ったので、正確には誰もいない公園ではない。男性は膝の上でノートパソコンを開き、その画面の灯りが男性の顔を照らしていて、暗がりの中でそこだけぼんやりと明るくなっているのが見える。男性はスーツ姿で、缶に入ったなにかの飲み物を飲んでいる。年齢は40代後半といったところだろうか。足をしっかりと組んでそこから動かない。ときどき咳払いをしているのが聞こえてくる。また新しい音だ。

 

考え事をしたくて公園に来たような気もするが、辺りを観察しているうちに時間が経って、今さら何かを考えようという気も起こらなくなった。きっと私は眠いのだろう。コンビニに寄って、家に帰る。

横浜にて(2)

公園にて

公園のベンチで煎餅をかじる。たまたま立ち寄った近くのスーパーで、この中で今自分が一番食べたいと思うものはなんだろう、と、それなりに自問自答した結果、手に取ったのはふつうの醤油の煎餅だった。視界に入って一瞬手に取ろうかと心が揺れたスルメイカの燻製でもバームクーヘンでも、トッポでもポッキーでもプリッツでもなく、最終的にどうして私はこの煎餅を買うことに決めたのだろう。分からない。分からないのに買ってしまった。これを買ってよかったのだろうかという気分にすでになっている。私は煎餅を食べたかったのか。どうしてこの煎餅を買ったのか。そんなことを思いながら公園のベンチに座る。袋を開けて煎餅をかじると、口に入り損ねた煎餅の欠けらが地面に落ちた。欠けらを拾って鳩に投げたら、鳩はそれをついばんで、それを見た違う鳩が何匹も近くに寄ってきた。向こうに見えていたときには愛らしく思えていた鳩も、近寄ってくると今度は鬱陶しく感じられてくるものだ。接近する鳩を手で追い払い、また煎餅をかじって食べた。


今日は空がよく晴れて気持ちがいい。頭痛もだいぶ治まってきて、日差しの暖かさや風の柔らかさを素直に心地いいと感じられるくらいには、自分で自分の首を絞めるかのような些末な物思いに耽ることなく、自然に外の世界に意識を向けることができるようになってきた。自分自身について考えている時点でその人はすでに病んでいる、と、以前どこかで読んだ本に書かれてあったのをふと思い出す。ほんの僅かなことを疎かにするだけで、あっという間に人は人の姿を保つことができなくなる。頭の痛みは治まったけれど、頭の真ん中にはまだズッシリと重たい眠気の塊のようなものが埋まっているみたいな感じで気分は冴えず、外の世界と内の世界を行ったり来たりしながら静かに移り変わっていく公園の様子をしばらく眺めていた。


向こうでは子供たちが遊んでいる。枯れた木の上には鳥が何匹かさえずっている。近くの道路には宅配のバイクが走っている。風はまだ冷たい。気が付いたらもう日は傾いていて、暖かさを求めて座った私の今いるベンチには日差しが当たらなくなっていた。腰を起こして、さっきまでは高齢の男性たちが座り込んでいた二つ隣りのベンチに座り直す。それからまたしばらくぼうっとした後、近くのコンビニまで歩いていき、食べ終えた煎餅の袋をゴミ箱に捨てた。

(更新中)

横浜にて

風邪を引いてしまった。左後頭部が10秒に一回くらいズキッと痛んで、顔が歪む。こういうときに楽しいことを考えようとしたって無理な話で、どうしても暗い方に気分が傾いていく。今は自分を癒すことを第一に考えたい。今はなによりも自分で自分を大切にする時間を持ちたいと思う。

風邪を引くまでの経路を考えると、なんというか、今までの自分の生き方というか考え方というか他者との接し方というか、そういう何か根本的な部分が間違っていたのかもしれないという思いに駆られる。今までの私は自分を殺して相手に合わせることばかり優先させてきたのではないか。自分を大切にできていなかったのではないか。その結果として他者すらも大切に扱えていなかったのではないか。頭や心より体の方がよっぽど自分のことをよく知っている。しばらくの間、頑張ろうと思ったって頑張れない今の状態でいることが、今の私にとって必要な何かを知るきっかけになるかもしれない。

最近一つ思うことがある。この世の中にはいろいろな人間がいる。それぞれがそれぞれなりのやり方で生きている。誰の生き方が正しく、誰の生き方が間違っているということはないはずなのに、ずっと一人で生きていけるほど強くはいられない人間たちは徒党を組んで集団を作り、その集団の中で規範とされるある一つの生き方を共有することによって、まるで自分が正しい存在になったかのような気分に浸る。自分が正しいと思いたい。その欲望から人は逃れられない。

完璧な人間はどこにもいない。誰もが欠落を抱えていたり、過剰さを持て余していたりする。過剰さは欠落の裏返しだ。欠落を埋め合わせようとして人は過剰になり、自分の過剰さは他者の過剰さとぶつかり合う。ある人間の過剰さがある人間の欠落と結び付いて安定的な関係を築いたり、同じタイプの過剰さを共有する者同士が仲間になって安定的な集団を作ったり。そういう風にして人は関わり、社会というものは成り立っているのかもしれない。人と人とはどのように関わり、どのように距離が生まれていくものなのか。欠落、過剰さ、そしてそれぞれの相性のようなもの。その人にしか持ち得ない独特な思考の偏りみたいなものが、その人の中のどこに起源があるのかを考えさせられることは多い。

自分にとって大切なことが、他の誰かにとっても大切なことであって欲しいと、人は思う。その誰かが自分にとって大切な存在であればあるほど強く思う。けれど、そうでなかったとき、その人は目の前の他者をどう思うだろうか。

相手のやり方を否定して、自分のやり方を貫くのか。それとも自分のやり方を否定して、相手のやり方に委ねるのか。私はどのどちらだろう。相手のやり方を否定できるほど強い確信が自分の中に見つからないから、きっといつも自分のやり方を探しこまねいているうちに、相手のやり方に合わせるしかなくなっているのだろう。いつまでもそれでいいのか。相手のやり方に合わせている内に自分のやり方を見失い、自分にとって大切なものを気付かぬうちに明け渡すことになってはいないか。

自分にとって大切なことはなんだろう、と、ここまで考えて、ふと思う。今の自分にとって譲れないもの。間違いなく大切だと思えるもの。これがなければ生きられないと思うもの。そんなものは自分にない、と、言い切ってしまえるほど強い確信も、今の自分にはない。それでも今の私を作っているのは、今までの私と関わってくれた他者なのだということを思わずにはいられない。他者とどのような関係を築くかということが私の全てだ。そしてだからこそ、私は他者に自分の全てを明け渡すかのような子供じみた態度を取ってはならないのだと思う。

自分の発言に責任を持つこと。自分の態度を一貫して揺るがせないこと。守るべきところは守り、場合によっては他者と衝突することを辞さないこと。今の私にできないことばかりだからこそ頭に浮かんでは言葉になる。悩んだまま、迷ったまま、考え込んだままの姿では、人は他者の前に立ってまともに話をすることさえできなくなる。自分の欠落を過剰さで誤魔化すのでも、他者の過剰さを安易に退けるのでもなく、どうすれば私は他者と丁寧に関係を築いていくことができるのだろうか。まずは寝て身体を休めたい。体調が良くならなければ始まらない。