10月11日(火)

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昨日のブログを書いているとき、頭の片隅でぼんやりと思い出していた一つの動画があった。予備校に行かなくなり、大学にも行かなくなり、一人でアパートの一室に引きこもりながら、罪悪感と孤独感で胸が押しつぶされそうになっていたとき、当時東京都知事選に出馬していた起業家の家入一真氏が運営していた『dropout』というサイトで、この動画が紹介されていたのを見つけた。父親から送られたというメールの「アドバイス」を淡々と読み上げるこの女性のうつろな目に、激しく共感していたのを覚えている。

そのサイトにあった動画は今では非公開になっているのだが、インターネットをしばらく見渡して探してると、ほとんど同じ内容のものが見つかった。非公開になっていたのはもう誰にも見せたくなかったからかもしれないし、そもそも私はこの女性のことを何も知らない。しかし個人的に思い入れが深く、かつ同年代の若者としてなんともいえないやるせなさがにじみ伝わってくる優れた内容だと今も感じるため、ここにぜひ紹介させていただけたらと思う。勝手に借用するご無礼を許してほしい。

ネット上でこの動画を探しているとき、この動画に対する賛否が真っ二つに分かれていることを知った。私は父親からの叱責に合い、良心の呵責にさいなまれ、世間並みに生きられない自分や、自分の居場所をどこにも感じられない社会に対して激しく憤りを覚えていたときにこの動画を観ていたため、世間を盾に圧倒的な正論を振りかざす動画内の父親に対して猛烈な反発を感じていた。それには私自身の父親の姿もそこに重ね合わせていたのもあるだろう。しかしネットを見ると意外にも「この父親は正論だ」「良くできた父親だ」「それに比べてこの女は最低だ」「だからニートはダメなんだ」という旨の意見も多数存在することが今になって分かった。あまりにもクソだと思った。そして私は、自分自身がこの社会の「働かざる者食うべからず」的な思考停止した同調圧力に対して、明確に反対の立場なのだということを思い知った。

私は現在の世の中で一般的に「ふつう」とされている生き方をしている人たちのことをまったく否定しない。しかし「ふつう」とされている生き方をしている人たちが「ふつう」でない生き方を余儀なくされている人や自分の意思を通した結果「ふつう」でない生き方になってしまった人を、ただ「ふつう」でないからというだけの理由で軽蔑・非難・差別するのであれば、私はそれに明確に反発する。青臭いかもしれないが、これはもう明確に反発する。

私自身、端から見れば親が公務員の恵まれた中流階級の家庭に生まれ育ち、大きな怪我や病気をすることもなく金銭的にも何不自由ない生活を送り、小中高と不登校になるわけでもなく大学にまで奨学金も借りずに進学させてもらい、であるにもかかわらず中退し、かといって仕事に就くわけでもないから本来なら路頭に迷わねばならないところを実家があるからなんとか衣食住を確保できているに過ぎない、特別な取り柄もなく、何か強い信念があるわけでもない、怠惰で小心者の自意識過剰な無職の引きこもりのニートであって、ある種「ふつう」であるとしか言えないような単なるつまらない凡人であることは間違いない。しかしそれとこれとはべつだ。私は自分が「特別」な人間であると主張したいわけではない。人は本来、自由に考えて自由に行動する姿が自然なのであり、あらゆる義務や責任は、本人がそれを同意したときにのみ初めて意味を持つものだと主張したいだけだ。議論の余地なく、無条件に誰かの意見に従わなければならないなんてありえない。

とはいえ、これから社会とかかわりながら生きていくには、私が忌避する世の中のさまざまな矛盾も、きっと甘んじて受け入れていかねばならないことがあるだろう。その過程で私の価値観も多かれ少なかれ変わっていくかもしれない。しかしまずは自分で、自分がこういう理屈っぽくてしちめんどくさい性質を持っていることを、持たずにはやってこれなかったことを認めたい。そして私が他者の自由を侵害しない範囲で自由にこの世の中を渡り歩いていく中で、私自身の尊厳が何かによって不当に損なわれていると感じる場面に遭遇したら、私はそれに対して反論することを辞さない。