グーグルで軽くエゴサーチをしてみたら、去年書いていたブログの文章とかもう消したはずの昔のツイッターのつぶやきとかがちらほら現れて来て、なんかもう、胸の辺りがえぐり取られるような気分になった。付き合いのある学生時代の友達はもう全くいなくなってしまったけれど、彼らがもし何かの拍子で私を思い出し、検索にでもかけてみたら、果たして今の私を見てどう思うだろうか。もちろん、わかっている。大半の同級生たちは「そんなヤツいたっけ?」みたいな感じで、私のことなんか全然気に留めていないだろうということは。というよりそんな風にいちいちどうでもいいことを気にしてしまう自分自身を克服したくて、わざわざ実名で文章を書いているようなところがあるのだから、その程度の苦痛くらい承知の上なのだ。腹を括らなければ。他者からの冷徹な評価の視線に切り刻まれる覚悟を決めよう。

表現するという行為は、大前提として恥ずかしいものだと思う。恥ずかしいけれど、その恥ずかしさを乗り越えて自分を出すからこそ、その先に待つ、もうそれが大丈夫になった自分自身に変わることができる。街中を歩くときでさえ他人の視線を気にして鼻歌を歌うことすらできなかった私が、今や、である。自分をさらけ出した分だけ、自由に立ち回れる領域が増えていく。どうしたって野暮ったくなるのは仕方がないのだから、今は質より量を出さなければ。

と、いうようなどうでもいいことを書いていたら夜が更けてきた。今日は明日早朝の予定に備えて、新潟市の漫画喫茶にて前泊である。明朝6時、内野駅に向かう。

 

午前3時になった。夕飯に食べた唐揚げが今になって胃もたれを起こし、眠気はあるもののまったく休まることができない。このままグダグダな感じで朝を迎えるのだろうか。ああ。