#18

梅干しを思い浮かべると唾液が出てくるみたいに、高速バスに乗るといつもカーペンターズを聴きたくなる。24時11分。これから、東京駅八重洲口鍛冶橋駐車場発の高速バスに乗って新潟へ向かう。新潟には二日しか滞在しない予定だ。明日はお世話になっている人のイベントにお邪魔して、明後日は実家にあるバリカンで自力の散髪をする。それからすぐ、その日の深夜の高速バスでまた横浜まで戻っていくつもりだ。結局、美容院には行かなかった。行かなくたっていいと思う。この際だからいっそ美容院縛りの人生を生きよう。高速バスが往復で6千円くらいだったから、ヘアカットを4千円と見積もって、2千円で横浜〜新潟間を行き来できたと考えることにしよう。こういうよく分からない計算を、たまに私はやったりする。

比較的元気が残っているうちに、切なくなったり寂しくなったりしたときの心の準備をしておくのはいいかもしれない。私にとって「切なくなったらカーペンターズを聴く」というのは、もはや一つのおまじないのようなものになっている。切ないから聴いているのか、聴いているから切なくなるのか、切なさに酔っているだけで本当は切なくなんかないのか、だんだんだんだん聴いているうちに分からなくなるおまじないだ。夜行バスに乗り込んだら、ブランケットを膝に掛ける。イヤホンを耳にはめて、スマホから『雨の日と月曜日は』を流す。車窓を流れていく深夜の高速道路の風景と、眠れぬ夜を過ごしている知らない誰かのつぶやきが流れるツイッター。その二つを交互に眺めながら、センチメンタルな気分に浸っている自分に酔う。

曲は、原曲よりもよく分からないピアノの上手な誰かが弾いているカバーの方が好きだ。Apple Musicに入っている『美しきピアノ集〜カーペンターズ編〜』みたいな安っぽいタイトルのアルバムをよく流す。他の曲に比べてなぜか極端に音質が悪いのだけど、その辺りも、ラジオかカセットを聴いているような懐かしさがあって、むしろ好きだ。高音質だからいいってもんじゃない。こもったように響く割れた高音は、ささくれ立った独りぼっちの心にちょうどいい。

 

6時51分。さきほど新潟に到着し、これから始発の電車で目的地へ向かう。寒い。早朝の新潟はこんなにも寒いのか。水風呂にでも入っているかのような寒さだ。ここ1カ月くらい、風邪が治ってはまた風邪を引き、を繰り返している。コンビニで肉まんとお茶とコロッケパンを購入し、電車に乗って目的地へ移動する。早朝の電車にはまばらな人。垢抜けなさが丁度いいと言ったら失礼か、都会から帰ってきたばかりのせいか、どうしてもそういう目線で見てしまう。列車を取り囲んでいる山の一角から朝日が昇りはじめるのが見えた。

いつもお世話になっている方に車で集合場所まで送ってもらい、現地に到着。囲炉裏を囲みながら皆で朝ご飯を食べる会に参加する。初対面の人もいれば、会ったことのある人もいる。「普段は何をされているのですか?」という類の質問には未だに上手く答えられず、素性を明かしすぎて少し不審に思われた感じもあったけれど、致命的なミスは犯さなかったように思う。横浜にいた数ヶ月、様々な人との出会いに恵まれたおかげで、多少は人並みの社交性のようなものを身に付けられたのかもしれない。どうでもいい話をどうでもよくなさそうに話すには、それなりの技術が必要だ。ぎこちない笑顔を浮かべながらキッチンで白菜を浅漬けにしたり、囲炉裏の火をぼうっと眺めたり、餅を食べたり、薪を運んだりする朝を過ごす。

 

実家の近くに住んでいる参加者の方に、車で家まで送ってもらい、そのまま自室の布団に倒れ込んで寝た。さきほど起きて、テーブルの上に置かれてあったカレーを食べる。現在の時刻は22時51分。自分ではまだ分からないが、こうしている今も、実家ないし地元の空気感が確実に自分へと染み込んでいるのだろう。危ない。出発する日を決めていて良かった。油断すると沼にはまって動けなくなる。

 

賭けるものがないと、勝負には出られない。と、かつて陸上競技で名を馳せた著名なアスリートが発言していたのをふいに思い出す。何も持たないこの私に、賭けられるものなんてあるのだろうか。生き様、なんて言えるほど、きっと私はかっこよく生きてはいけないだろう。