横浜

先月末から横浜にある知人の家にお邪魔している。詳細は省くけれど、この家はふつうの家と違って(関係者の皆様には大変恐縮ですが便宜上ものすごく簡単にまとめさせていただくと)ネット上で広く「誰でも遊びに来られる場所」として開放されているため、全国各地から趣旨に賛同した人や興味を惹かれた人が訪れてくる。その場所で、私はここ二週間ほど訪問される方たちの応対や屋内の掃除・庭の整備などをしていた。また同時に(これも説明し出すと長くなるので詳細は省くけれど)フェイスブック上に自分の連絡先を公開して手伝いや頼み事の依頼があった場所に身一つで飛んでいくという関連企画に参加・自主的に敢行していたため、連絡をくれた方たちと話をしたり荷物を運んだり掃除をしたり庭の草木を刈ったりしていた。久しぶりに忙しい毎日だった。

私のような何の社会的な肩書きも持たない人間が、仕事として労働力を差し出すのでも、個人的な趣味を通じて関わりを持つのでも、何かのイベントに参加して顔を合わせるのでもなく、ただの一人の人間としていきなり見知らぬ人と会って話をするというのは、しようと思ってもなかなか経験できることではない。

人と会うたびに、何かが鍛えられているような感覚になる。家の掃除や依頼主のお手伝いで実際に身体を動かす中で経験できたことももちろん価値があったけれど、最も学ぶことが多かったのは実際に相手を目の前にして話をしているときだった。知人の家にいる間は「留守番を頼まれている者」として、手伝いに向かう時は「企画に参加している者」として、自分がどのような存在なのかを示す文句みたいなものは一応はあるにしても、自分でただそう名乗っているだけだから、そんなものはほとんどないに等しい。紋切り型の説明ができない分、そのときどきで行うアドリブ的なやりとりだけが頼りになる。目を合わせた瞬間に「この人にはそれほど熱心に説明しなくても大丈夫そうだな」と思う人もいれば、どれだけ話をしても近付き難い距離を感じる人もいる。相手とよりコミュニケーションを取るために、最近の私は、人とよく目を合わせて話をするようになった気がする。

今回、私がこのような機会を得たのは、お世話になっている方たちのお膳立てがあってこそのもので、私個人の力ではない。自分の力だけで何もないところから一人で始めたという訳では決してないから、自分自身がどのような人間なのかを説明するときに、お世話になっている人たちの存在を抜きにして語ることはできない。そのことをありがたいと思う反面、やはり自分はまだまだだなとも思う。私は自分の足で立つためにこの場所に来ている。そのことを忘れてはならない。

どのような形であれ、他人と関わろうと思うと、そこには必ず繊細に感じ取らなければならない様々な注意点が現れてくる。その場で言っていいことと言っていけないことの峻別とか、誰と誰がどのような関係にあるのかとか、どのようなパワーバランスで会話が進んでいるのかとか。学生時代は、そういった人間関係の微妙な空気の揺らぎみたいなものをいちいち読み取らなければならないのがめんどくさすぎて知らず知らずの内にストレスを抱え込んだりしていたけれど、今は少しだけ大人になって、以前よりかはそれなりに上手く肩の力を抜けるようになった気がする。ただ、やっていること自体は昔も今も変わらない。他人との関わりの中で生きていくということは結局そういうことなんだろう。

口に出している言葉と胸の底に渦巻いている気持ちとが噛み合っていないと、相手の目を見て話すことができなくなる。他人と上手くいっているフリをするのもそれなりに大変で価値のあることだと思うけれど、ここぞと言う場面では相手の目を見てまっすぐに自分の意志を伝えられるようになりたい。