天パ日記について

人間には、最低でも三つの顔がある。一つは社会や世間などの不特定多数の「みんな」に向けて話す顔、もう一つは家族や恋人・友人などの特定少数の「なかま」に向けて話す顔、最後は自分で自分と向き合ったときに現れる顔。

「みんな」の中には多種多様な人が含まれる。当然ながら、自分に対して好意的に思ってくれる「なかま」だけが含まれるわけではない。だから、「みんな」に向けて話すときは「なかま」に向けて話すときより注意を払う必要がある。自分を立派に見せようとしたり、少なくとも信用できない人物だとは思われないようにしたり。他人前に出るからには、そのときの自分にできる限りの最高の自分であろうとするし、最低でも他人前に出して恥ずかしくないような振る舞いをしようと努力する。努力することが求められる。

しかし、そればかりでは疲れてしまう。「みんな」の前では、不特定多数の人からの評価の眼差しに耐えうるだけの「より良い自分」でい続けなければならない。しかし「より良い自分」は、自分の一部でしかない。「みんな」の前で「より良い自分」として振る舞い続けるためには、その他の自分の側面を気兼ねなく解放できる「なかま」の存在が必要だ。「なかま」がいてはじめて、「みんな」の前で、自分なりに努力した「より良い自分」の姿を保ち続けることができる。

「みんな」を「プロ」、「なかま」を「アマ」と言い換えても良いかもしれない。「仕事」と「趣味」の違いもこの構図に当てはまるかもしれない。「なかま」といるときに通用していたことが「みんな」の前では通じない。そういうことはよく起きる。「みんな」の前に立つときは、自分を好意的に思ってくれる「なかま」だけでなく、どれだけ多様な人々を「みんな」として想定することができるのか、その想像力が問われることになる。誰が見ているかわからない。「みんな」の中に含まれる一人一人は、それぞれ全く異なった別々の人生を生きている。自分とは決定的に異なる誰かの人生に対してどれくらい想いを馳せることができるのか、そこが問われることになる。

 

と、以上は就寝前の思い付きで書いた単なるメモ書きに過ぎないのだけど、最近考えていることを、わりとまとめられたような気がして少し嬉しい。そして、この前提があって初めて私は、いまの私が本当に言いたかったことを書き始めることができる。

私が言いたいのは、この天パ日記は、「みんな」に向けられたものでも、「なかま」に向けられたものでもないという話だ。私事になるが、最近になって、現実世界で当ブログの存在が話題に上ることがなんだか少し増えてきた。しかし私はこの場所を、不特定多数の人たちに向けて、他人前に出しても恥ずかしくないような「完成品としての文章」を発表する場にしたいとは思っていないし、自分を(基本的には)好意的に受け入れてくれそうな特定少数の人たちに向かって、ある種傷口を舐め合うような、互いに互いが「なかま」であることを再確認し合うような、馴れ合いの場にもしたくない。

私がやりたいのは、冒頭に書いた三つ目の顔、自分が自分と静かに向き合っているときにだけ現れる文章を、読もうと思えば誰もが読める場所にこっそりと置いておきたい、ということになる。だから、別に読んでくれてもいいのだけれど、誰かに読んでほしいがために書いているわけでは全くない。ほんとに全くない。もしも私がこれから「誰かに自分の書いた文章を読んでほしい」と思ったときは、より多くの人に読んでもらえるようにちゃんとツイッターとかにリンクを貼るし、それなりのクオリティになるようにちゃんと推敲に推敲を重ねるから、この日記に関しては別に無理して読んでくれなくてもいいし、そんなに読んでほしくもない。公開しておいてこんなことを言うのもアレなんだけど、その辺りを勘違いしてほしくない。

この日記に関しては、自分と対話し続けるというスタンスを徹底したかったから、こうやって自分のしたことを自分で説明するような話は今まで控えていた。でも最近、ちょっとその辺りの暗黙の了解みたいなものが崩れてきて、たいして親しくもない人から「ブログ読んでますよ!」という「うわあなんかちょっとあんまり嬉しくないな」と思うアピールをされることが増えてきた。私としては、べつに読まれても構わないのだけど、読んでくれたからといって特別嬉しいということはない。むしろ拙いながらも自分と一対一になって真剣に文章を書き切ってやろうという気概が削がれる感じがする。ここに書いてあるのは私の恥部だ。ここは私がたった一人でナイーブな感情をぼそぼそと吐露するだけのゴミ箱のような場所だから、できればそっとしておいてほしい。

 

でも、もしかしたらそうも言ってられないのかもしれない。読んでくれて嬉しい、と思うときもないわけじゃないし。やはり結局は、読んでくれている人がどんな人なのか、ということに尽きるのだろう。よくわからない人に読まれても、やはりよくわからない気持ちにしかならない。とはいえ、いつまでもこんなことばかりやってはいられないのかもしれない。もしかしたら私はもう少し読み手を意識したちゃんとまとまった文章を書かなければいけないのかもしれない。

 

そんな折、ツイッターで下のような投稿を見つけた。

すごくわかる。おれが目指しているのはまさにこういうことだったのだ。見栄にまみれた文章や、価値のある情報をまとめた記事なんて読みたくない。この世界で自分がたった一人になったかのような気分に浸れる文章が読みたいし、書きたい。誰かに向けられた文章ほどつまらないものはない。「みんな」に向けた文章には見栄が混じる。「なかま」に向けた文章には同調圧力を感じる。背伸びした自分を見せるのか、それともあえて露悪的に振る舞うのか、いずれにせよ自分に対する相手からの印象をコントロールしようとする浅ましさが透けて見える。それによって周囲からの視線を自分に引きつけようとするかのような文章を、私はここで書きたいとは思わない。それらを振り切って、せめて文章の中にいるときくらい、たった一人になっていたい。

#12

屋内にいるのに、空気が冷たい。こんな夜は考え事ばかりしてしまう。

 

 

一人にならないと文章は書けない。一人でいるときと誰かといるときでは、物事の考え方も世界に対する感じ方も、何かが微妙に違ってくる。その違いに敏感になりたい、みたいなことを考える。

誰かといることに慣れると、一人でいたときの自分が何を考えていたのか、少しずつ分からなくなってくる。一人で過ごしているときの自分が「ほんとうの自分」で、誰かと一緒にいるときの自分はそうじゃない、と、言いたいわけではない。けれど、目の前にいる人が楽しそうにしているときに、「自分はあんまり楽しくない」とわざわざ口に出して言うのは難しいし、なにより、目の前にいる人が楽しそうにしているのを見てこちらまで楽しくなってしまう、ということもある。誰かといる、というただそれだけのことで、考えなくても済む問題、感じなくてもいい事柄、見過ごしても構わないと思える違和感はたくさんある。

一人でいるときにどうしても気になって仕方なかった問題が、誰かに相談しているうちにだんだんどうでもよくなってくる、ということがある。他人の視線を気にして、ずっと一人で延々と悩んでいたことが、誰かの何気ない一言によって「なんてちっぽけなことに悩んでいたのだろう」と気が付く。悩みなんて最初はどこにもなかったのに、一人でいすぎてしまったがために自分で余計な悩みを作り出して、結果、自家中毒に陥ってしまう、なんてこともある。一人でいることが、ただそれだけで毒になることはよくある。誰かと一緒にいて楽しくなれるなら、それでいいような気もする。

でも。一人の人間が抱えているものが、誰かと一緒にいるだけで気にならなくなってしまう程度のものなら、文章も、映画も、音楽も、学問も、宗教も、存在していなくてもよかったと思う。偉そうなことは言えないけれども、あらゆる表現は、自分自身がこの世界に対してたった一人になっているときにこそ生まれてくるし、必要になるものなのではないか。最初から他の誰かに認めてもらうためだけに作られた「表現」は、見る人が見たらきっとすぐに見抜かれてしまうし、自分自身だって満足しないだろう。それくらいで満足できるなら、最初から多くの人がするのと同じように生きていればよかったはずだ。

自分は他の人と違う、と言いながら、違う、と言っている者同士で徒党を組めば、もともと自分が抜け出したかったはずの場所とほとんど同じ環境を作り出してしまう。自分にとって安心できる場所は、そこから離れて見ている人たちにとって、近寄りがたい外部でしかない。外部に対して自分をただ開くのではなく、むしろ自分自身の内側を徹底的に掘り下げることによって、全ての人が内側に持っているはずのなにか普遍的なものに触れたい。そんなことを考えていた。

#11

昨日は日が落ちてからもじっとりと額に汗がにじむくらい暑かったのに、今朝は驚くほど空気が冷たい。起き抜けに、かろうじて持って来ていたセーターを一枚バックから取り出し、長袖のシャツの上から重ね着をする。けれど、それから歯を磨いたり布団を畳んだりなんかしているうちに、どうやら今日の寒さはセーター一枚くらいでは太刀打ちできなさそうだと思うに至り、身震いしながらもう一度バックをさぐり、さらに一枚ヒートテックの下着を着込むことにした。外は雨が降っている。冷たい雨だ。

知人宅に滞在して、今日で三日目になる。昨夜は、唐突に鍋パーティーのようなイベントが催され、のべ7人くらいの参加者らと酒を酌み交わす機会があった。久しぶりに酒を飲んだ。

 

人が何人か集まっている場所で、どのように立ち居振る舞うか。一人で過ごしているときの自分の感受性を保ちながら、複数の他者からの視線をどうさばき、受け答えしていくか。ともすれば、ただ声が大きいというだけで内容的には全然おもしろくない人の話に皆が愛想笑いをして、全体的に「まあ、みんな笑ってるし、なんとなくこれで笑っておけばいいか」的な、ふわっとした表層的なところで話が安易に収まってしまいがちな空間において、自分は自分を見失わずにどう立ち居振る舞うことができるのか。できないことだらけではあったが、いろいろと勉強になることの多い時間だった。

具体的には、久しぶりに「普段、何をされているのですか?」という(私がこの世で最も苦手とする)質問を初対面の人からされて、不快になった瞬間があった。その質問が私の耳に入ってきた瞬間に、私は表情に「なんでそんな質問するのですか(その質問をする必要はありますか)」という気持ちを匂わせて、会話のリズムを不自然にワンテンポ遅らせたり、目の前の料理に視線を移して話題に興味がないことを察してもらおうとしたり、とっさの判断で、反射的に、相手も自分も傷付けずに良い感じに話を受け流す自分なりの工夫を試みたのだが、失敗に終わった。私がその質問に答えたところで、何かしら実りのある方向へ話が転がっていかないのは、目に見えている。話の糸口を掴むにしても、あまりにも手垢の付いた紋切り型の切り出し方で、なんというか、空虚だ。空虚な話はしたくない。お互いに取り立てて話したいことがないのなら、わざわざ話をしなくたっていいではないか。私は目を逸らす。けれど、相手は無邪気な眼差しで私を見つめつづけている。投げかけた質問に対する私の応答を、健気に待っている。さらに辺りに目をやると、その隣に座る人もなぜか同じ目つきで私を見ている。なぜだ。なぜどうでもいいと本心では思っているはずの質問を相手にぶつけて、それにきちんと答えが返ってくることを当然のように思っているのだ。余計な負担をかけさせるな、私に。

と。人が複数で集まると、往往にしてこういうことが起きる。複数人からの無邪気な眼差しに私はいよいよ根負けして、その時はなにか適当なことを話して、茶を濁した。不全感が胸に残る。場は、何事もなかったように流れていく。 

もっと繊細にものごとを捉えられるようになりたい。その上で大胆に、自分で場を回していけるだけの度量を持ちたい。そのときはそれで終わってしまったが、人が集まる場所に自分を晒すと、自分の中の何かが鍛えられているような感覚になる。しかしまあこんな出来事だけをここに書いてしまった訳だけれど、久々に会う友人と話ができたりして別に会自体が楽しくなかったというわけではなく、久しぶりにこういう経験をするのも悪くないな、と感じた。というか、こんなことばかり書いているから私はダメなのかもしれない。ついつい余計なことばかり考えてしまうのは、他の人たちと違って飲み会のような席を自然に楽しむことができないからなのだった。

 (更新中)

#10

21時58分。新発田駅から新潟駅へ向かう列車に乗っている。自宅から駅まで30分ほど歩いてきたので、身体が軽く汗ばんでいる。左斜め前には30代後半の若手社長風の男性が二人が座っていて、なにやら大きな声で「草取りだって社長の仕事ですよ」「やっぱり新卒で入ったのを一から教育しないと。中途採用の人ばっかり採用して、他の会社だったらこうでした、みたいなことを言わせてても仕方がないんすよ」というような話をしている。社長らしく強そうな格好をしていた。

22時27分、新潟駅に到着。これから、新潟駅南口を24時ちょうどに出発する高速バスで東京駅まで向かう。しばらく時間があるので、とりあえず駅構内のベンチに座って時間を潰す。さっきから目の前を20代後半くらいのホスト風の男性が歩き回っていて、電話で愚痴っぽく話をしている。しばらくして電話相手と思われるスーツ姿の男性と合流すると、右側の出口の方へ向かって消えていった。人が来ては、人が去る。なかなか時間が経たない。時刻は22時40分。

 

新潟には、一昨日の深夜に到着した。電車に乗って実家へ直行し、シャワーを浴びて布団にもぐった。そして、そのまま昨日は布団の上で断続的に寝たり寝なかったりしていた。一週間に一度くらいああいう日がないと、おれは死ぬ。それから深夜、気晴らしに外を散歩した。部屋にいるとき、19歳くらいの頃に大好きだった曲の動画をたまたまユーチューブで見つけたので、それを繰り返し聴きながら歩いていた。

Michael Buble and Blake Shelton - Home - YouTube

ちなみにこの曲。郷愁を誘う、という言葉がぴったりの名曲だと思う。

 

自宅から駅へ向かう途中で、少しだけ祖父母の家に顔を出した。祖母と会って話をすると、何気ないやりとりの中に、いつもどこか寂しげな表情を見せる。けれど、私には何もしてやれない。誰かの寂しさに寄り添いすぎると、自分が幸せになろうとすることにさえ罪悪感を感じてしまいそうになる。多かれ少なかれ、それぞれがそれぞれの寂しさに耐えて生きている。安易に言葉をかけたところで、余計に寂しさを募らせるだけなのではないかと思って、会話しながら、流れをあまりポジティブな方向に導くようなことはしなかった。祖父とは、居間から玄関まで向かうすれ違いざまに、4秒ほど言葉を交わした。顔を合わせて2秒くらいで就職やら結婚やらのことを言い出したので4秒がギリギリだった。でも玄関を出る直前、誕生日おめでとう、と直接伝えられたのは良かった。

 

高速バスに乗り込む。24時までは、地面に座り込んで祖母がくれたおかきを食べながら過ごしていた。バスの中はガラガラだった。けれど、乗車してからというもの財布とメモ帳がバックの中にちゃんと入っているか気になって、なんだかずっとソワソワしている。明日到着したら真っ先に確認しよう。あと、普段そんなことを考えたこともないのに、このバスが事故を起こす確率もゼロではないよなあ、となぜか頭によぎって不安になっている。おそらく心配性の祖母と話をしたからだろう。いつかのニュースで、大学生を乗せた高速バスが横転して悲惨な事故を起こしたことがあった。去り際にしつこいほど、気をつけてね、と祖母に言われたときは、そのときはそのときだね、なんて冗談めかして答えたけれど、いざ一人になるとやはり少しは心細くなる。テレビのニュースなんてしばらく見ていないけど、祖母は毎日見てるのだろう。毎日ニュースばかり見ていたらそりゃあ気分も暗くなるだろうに。せめて祖母も、もう少し外の空気を吸う機会でもあれば、多少は気分も変わるんだろうけど。しかし、私にできることはやはり何もなかった。

 

 

7時3分、東京駅鍛冶橋駐車場に到着。バックを開けると、財布とメモ帳はちゃんといつもの場所にあった。胸をなでおろす。電車に乗って知人宅へ向かう。時間はちょうど通勤ラッシュだ。満員電車に揺られながら、つり革に捕まる背広姿の男女一人一人に目をやる。それぞれの人生に想いを馳せると、自分が生きられなかったあり得たかもしれないもう一つの人生を見るようで、悔しいのか寂しいのか分からない、不思議な気持ちになる。

 

(更新中)

#9

19時14分。東京駅から新潟へ向かう高速バスの車中でこの日記を書いている。

一昨日、宿泊していた漫画喫茶にて、数ヶ月前にお世話になっていた方に連絡を送り、近くまで来ているので少しだけ顔を見せに伺うことはできないか、との申し出をした。了承を得て、家主の家に向かったのは昨日の正午頃。結局制限時間ギリギリの12時間近くを滞在し、少ない旅費をさらに消耗してしまった漫画喫茶を後にして、私は数駅隣の家主の家へ向かった。

12時すぎ頃、家に到着。道すがら、こういうときは何か手土産のようなものを持っていくのがセオリーなのではないかと遅ればせながら気が付き、ちょうど通りかかった八百屋の店頭に並んでいる、艶のいいリンゴと柿を購入した。店主の方が気の良い人で、おいしそうなリンゴですねえ、と話をしたら、品種や産地を教えてくれ、ついでにオマケまでしてくれた。手土産に果物っていうのはどうなんだろう、とは思ったが、店主の方と交わした一瞬のやりとりが心地よかったので、なんとなくこれで良いような気にさせてくれた。

到着した頃には家主一人しかいなかった。が、次第に訪問する人は増え、二人の子を連れてきた女性、それからこの近くに住んでいると話す男性と食卓を囲み、一緒に昼食を食べることになった。この家にはあちこちから家主を訪ねに人が集まってくる。私もその一人だった。私は少し家主と話をした後、洗濯機を借りて服を洗い、部屋の掃除を軽く手伝った。それから家主は外へ出掛けた。私は彼と話をして、今夜一泊しても構わない、との了承を得た。

子供たちは遊んでいた。居合わせた大人たち三人は、食休みにのんびりとした時間を過ごす。

突然、話の流れが急転し、「最近これだ!と思った名言を言い合おう」という話題になった。私は何も思い浮かばなかったので、「いやとくにないですよ」と苦笑して逃げたのだが、今になって思えば、そのときせっかくのチャンスを棒に振ってしまったのかもしれなかった。それから女性は、琴線に触れたという「名言」を一つ語ってくれたのだが、私はそれに上手くリアクションを取れず、女性には「まあ、これは苦労した人にでないと分からないですよ…」とうんざりとしたトーンで言わせてしまった。私はどうすれば良かったのだろう。もう少し相手の話を受け止めようという気持ちを持てば、話はどこか良い方向へ転がっていけたのかもしれない。しばらくして、女性は帰った。様子から、二人の子供に手を焼いているのは、そこはかとなく伝わって来てはいた。

男性も、それからしばらくして家を出た。家主と話せないなら仕方がない、と、しきりに苦笑いしていたが、私も私でそれに取り合おうとしなかったのが良くなかったのかもしれない。どちらからいらしたんですか、という初対面同士だったらほとんどの場合で交わすことになる質問をお互いに投げ掛けながら話の糸口を探り合っている段階で、男性はあちこち転居してきた過去や仕事を辞めて実家に帰った話などを漏らしたので、なにやらその辺りのことで、語り出したい何かを抱えているように見えた。けれども私はまともに取り合うことなく、床に残った粘着テープを剥がす作業に没頭した。手持ち無沙汰になった男性は、じゃあおれも、と言って掃除機を探し出して、家中の床を掃除し始めた。掃除が終わると、男性も帰った。何しに来たんだろう、と、男性は終始苦笑いしていた。

それから、はるばる九州から二人の子を連れた女性がやって来たり、テンションを履き違えた旅人二人が来てすぐ帰ったりしたが、このペースで書き進めていたら全く終わりが見えないので割愛する。(というか、この旅程で起きた主要な出来事は、この日記全体の中でほぼ割愛されている。どういう訳か、私は誰かと会って楽しかったことなどをわざわざ文章に書き起こそうという気にあまりならない。現実世界で完結している、と感じるためだろうか。むしろ一人の時間を持て余したときや、世界が灰色に見えているときにこそ書く気が起こる。)ともかく、私はその日一泊お世話になり、今日もまたほぼ半日滞在させてもらった。東京近郊に来てからというもの、宿から宿への移動ばかりで、地に足が付かない日々を過ごしていたが、昨日から今日にかけて屋内でなんでもない時間を過ごせたおかげで、知らない人との複数人での会話に耐えられるだけの落ち着きを、かなり取り戻していったように思う。

思えば、ここ三ヶ月あまりの実家での生活によって、私は他人との話し方がさっぱり分からなくなっていたのだけれど、東京を経巡っている間に会った友人や知人、それから街角で出会った知らない人たちと言葉を交わすことによって(少し大袈裟に言えば)生きていくための基礎になる何か大切なものを取り戻していった気がする。やはり私は一人でいすぎるとダメになる。そこから帰って来られなくなる。

ビジネスライクでなくただの一人の人間として、なんてことのない話を他人と交わすことができる場所は、私の周りにそれほど多くない。私のように友達の少ない者なら尚のこと、どうやって「ふつうの話」をするか、求めようにも手掛かりがないまま、就業や消費というビジネスライクな他者との関わり方の機会だけが目立ち、そこに合わせなければ生きていけないかのように錯覚させられる。もっと人間らしく他人と話がしたい。精神科のカウンセリングにも、ハローワークの窓口にも、職業訓練校の説明会にも、私の求めているものは見つからなかった。

家主の方と相談して、今週水曜日から再び伺うことになった。一週間の期間限定で、家の世話をしながら訪れる人の応対などをさせてもらう。三ヶ月前にも滞在していた身として、もう二度と失敗は許されない。この話を家主から振られたとき、私は、試されている、と思った。今の自分に見えかけているものを家主の用意した場所でどれくらいできるだろう。ただいるだけでは無論済まされない。大きな仕事が舞い込んできた。

(更新中)

#8

胃もたれの原因が分かった。きっとマクドナルドにいたせいだ。昨日も、私はマクドナルドにいた。百円でいつまでも座れて、しかもネットもタダで使えるから、どうしたって私はマックを選んでしまうのだった。水とハンバーガーを注文すると、私は二階へ上がり、電源のある座席でパソコンを開いた。向こうには、放課後にたむろする高校生男女の集団が見える。やっぱり都会の高校生は放課後にファミレスとか行ったりするんだなぁ。漫画とかではこういう光景を見たことあったけれど、おれにはそんな青春なかったぜ。騒がしいBGMと、恋愛の話で盛り上がる高校生の笑い声、それから店内に広がる鬱陶しいポテトの匂いが私を取り巻き、次第に私を内側から蝕んでいった。そしてまた、胃もたれを起こした。

 

どうなることかと思ったが、マクドナルドでの眠れぬ夜を過ごし終えた私は、ガストでの仮眠を経て、多少調子を持ち直していた。私は約束していた駅へ向かい、この日記を読んで「稲村彰人がリアルタイムで東京にいるらしい」ということを知ったらしい初対面の男性の方と顔を合わせた。いい雰囲気の喫茶店を紹介してもらい、そこで話をしながら、ゆっくりとコーヒーを飲む。SNS などで大々的に「誰か会いませんか?」とアピールしたわけでもないのに、こうして声を掛けてもらえるのは有り難かった。生きているとこういうこともある。穏やかな時間が流れた。

マックに入ったのは、その男性と別れてからだ。私は新潟へ向かう高速バスの予約をしなければならなかった。しかし、調べても調べても、最安で5000円台のバスしか見つからず、予約も日曜以降しかできそうにない。こんなことは今までになかった。私は、山崎まさよし八月のクリスマスを繰り返し耳に流して、沈みそうになる自分を支えた。そうこうしている内に、いよいよポテトの匂いに耐え切れなくなる。私は店を出た。外は雨が降っていた。私は、別れ際に教えてもらった漫画喫茶へ向かった。

 

夜が明けた。今、私は漫画喫茶を出て、近くのコンビニのトイレでこの日記を更新している。漫画喫茶に入ると、私はなんだかんだ制限時間いっぱいの12時間近く滞在してしまうので、払うお金はほとんど安いビジネスホテルかカプセルホテルと変わらなくなってしまう。そんなことだったらまだ布団で寝られる宿を予約した方が良かった、と、思わなくもない。けれども昨晩に限って、漫画喫茶に入ったのは正解だった。無限に食べられるソフトクリームと、無限に飲めるお吸い物が、意外にも私の胃の不調を回復させたからだった。それに、たとえマットであろうと十時間近くたっぷりと寝られたことで、私の調子は完全に持ち直していた。これならまだ生きていける。

 

ところで。自分がスマホに書いた文章をパソコンの画面を通して改めて読むと、違和感しか感じない。少なくとも、おおっぴらに他人に見せるものではないと思う。

おおっぴらに他人に見せても恥ずかしくないと思えるだけの文章を書かなければ、この先、自分は広がっていかないと思う。いつまでも舞台裏というか、自分にとって薬となるだけの文章を書いていても始まらない。もちろん「書きたいから書く」という気持ちがなかったら、そもそも書こうとも思わないのだが、書く以上は他者からの視線を意識しなければならない。もし自分が誰かに自分の書いた文章を読んでほしいとすれば、それは誰になるだろう。

(更新中)

 

#7

猛烈な眠気に襲われている。時刻は8時35分。

朝靄が立ち込める中、マクドナルドを出た私は、空腹に耐えきれず結局すき家へ向かった。ひとくち目に口にした牛丼は溶けるように甘かったが、それからは味わおうという気も起きることなく、ものの一分ほどで完食。久しぶりに供給された栄養に胃が驚いたのか、食べたものが胃に入る直前で詰まったかのような気分の悪い状態に陥る。店内に置かれていたお湯を流し込んでみるが大して変化はなくコンビニにて味噌汁を購入。バス停のベンチに腰掛けながら味噌汁をすすると、いくらか気分もほぐれてきた。それから居場所を求めて近くのファミレスへ。もう腹は減っていなかったので迷ったが、トーストセットを注文する。食べ終わったのが8時ごろ。それから、机の上に突っ伏して仮眠を取っていた。眠すぎる。

 

昨日はたっぷり睡眠を取ったために気分がすこぶる良かったが、今はすこぶる悪い。理由は睡眠を取らなかったから。シンプルだ。世の中はいつだってシンプルな原理に支配されている。やはり夜は寝ないとダメですね。夜に寝て、朝に起きる。すべてはそこから始まるのだ。

今の私にはもう睡眠のことしか頭にない。睡眠以外は目に入らない。眠ること以外、価値のあるものは存在しない。寝たい。とにかく。

というわけで、猛烈に実家に帰って爆睡したくなった私は高速バスの料金を調べる。しかし土日だから安くても4300円ほど、と、予約するのに少し躊躇するお値段。どうせ宿の料金も休日価格に上がっているだろう。つらい。昨夜は宿代をケチるためにマクドナルドで徹夜したというのに、それが裏目に出た形になる。平日か休日かなんてどうでもいいんだ、私みたいな人間にとっては。ひとまずこのファミレスにて仮眠させていただこう。

と、思った束の間、レジの付近で揉め事が起きる。どうやら呼び鈴を押しても応対してくれなかったらしいスーツ姿の男性客が、慌ててレジに戻ろうとしている店員さんにキレて帰っていったようだ。さっきから見ているとファミレスのホールはほとんど一人で回しているようだったから、これはいくらなんでも店員さんが気の毒だ。男性は「もういいから!」と、吐き捨てるようにドアを開けて乱暴に外へ出て行ったが、見ず知らずの他人に対してよくあんな風に接することができるなあ。何かによっぽど追い込まれてたんだろう。いやいやまったく都会には色々な人がいる。そういえば、深夜のマクドナルドにも色々な人がいたなあ。意外と年配の人も多かった。三日もいたからなのか、なんとなくこの付近の土地柄も少しずつ分かってきた気がする。

ファミレスで10時まで爆睡。それから郵便局にてなけなしのお金を下ろし、駅へ向かう。今宵はやはり新潟に向かうことにしよう。もろもろ限界だ。しかし、何の工夫もなく実家に帰ると絶対に何もしたくないモードに強制的に入ってしまうから、東京にいるときに感じる、この「自分で動かなかったら本当に何も始まってくれないんだな」という感覚を忘れないようにしたい。そのためにこそ、今の自分が感じていることをしっかりと書き残しておきたい。

(更新中)