小さな寂しさ

薄く雲がかかっているけれど、今日はよく晴れて良い一日になった。気温もほどほどで過ごしやすい。こういう日にドライブをしたり外で思いっきり体を動かしたりしたら、夕飯を食べた後、さぞ気持ち良い風呂に浸かれるんだろうなあと思いつつなぜか私の脳みそはどんよりと暗く沈んでいる。圧倒的な眠気が重しとなって、私を布団の中に引き留めさせている。せめて外を出歩ける格好に着替えよう。せめて父が帰ってくるまでには玄関から外に出よう(鉢合わせないように)。しかし、そう思いながらも体がまったく動いてくれないので、今日も景気付けに一発ブログを更新してから活動を開始したいと思う。頭の重しは、言語化してインターネットの海に沈めよう。

日々、私は一人で過ごしていることが多い。家族はいるけれど、とくに用事がないのであれば、あまり話をしない。趣味も、関心も、思想も、政治的主張も、詳しく話せばほとんど違うし、私のように意見を戦わせたりするのが好きというわけでもないから、共同生活を行いながらも、互いに間合いを見極めて、デリケートな部分にはあまり踏み込まないようにしている。昔のように、食卓を囲みながら同じテレビ番組を観て笑い合う、なんてことはもうない。今はスマホがあるから、それぞれがそれぞれの観たい映像をそれぞれの媒体で観ている。家族といえど、関係は希薄だ。正面から向かい合い、腹を割って本当にしたい話ができているだろうか。考えるまでもない。

本当のことなんて誰も口にしない。今年で84歳になる祖母は、60年以上連れ添った祖父のことをほぼ間違いなく疎ましく思っているだろうけれど、今さら離れることもできず、直接本人に積年の恨みを伝えることもできず、私や父に愚痴を言うので精一杯だ。おそらく胸の底で、「もうずっとこのまま一緒にいるしかないんだろうな」と諦めていることだろう。祖父母の家に行くと、祖父と祖母の些細なやり取りから、普段、二人の間でどのくらい貧しい関わり合いしかできていないのかがありありと伝わってくる。子どもの頃からそういう姿を見てきた私は、ずっと「私がなんとかしなければ」と無意識に思い込んできたところがあったのだが、最近は意識的に「いやあ、もう無理だわ」と思うようにしている。自分でさえままならないのに、他人の人生の問題に介入する余地なんて、私にはない。たまに祖母と話をすると、おそらく寂しさからだろう、孫である私をあの手この手を使って引き止めようとしてくるのだが、私は後ろ髪を引かれながらもなんとか距離感を確保するよう心掛けている。一昨日の病院に向かう車中でも小耳に挟んだが、最近もまた祖父の認知症は進んで、今は毎日孫の名前を祖母に尋ねてくるまでになったそうだ。記憶を失っていく祖父はどんな気持ちで日々を過ごしているのだろう。そしてそんな祖父を間近で見ている祖母の心境もまたどれほどのものがあるだろう。しかし、真正面からそれに向き合おうとすれば、私もまた無傷ではいられない。本当のことを話さないことでなんとか保たれている世界もまたそこにあるのだ。

誰といても、どこにいても、胸の隅にいつも小さく寂しさが眠っていることを忘れないようにしたい。その寂しさは、何かの折に一瞬消えたように思えることはあっても、どこまでも小さくくすぶり続けていくだけで、本当の意味できれいさっぱり失くなってしまうことはないのだと思う。今日も本当に言いたいことを言えないまま一日が終わっていく。しかしそれは皆、誰だってそうなのだ。いい加減、服を着替えよう。