保育園

私がまだ保育園に通っていた頃。体育館の隅にある遊具の周りで、幼馴染の友人K君と二人でおしゃべりをしていたことがあった。そのときどんなことを話していたのかはもう覚えていないけれど、K君の話すことに対して私が何か気の利いたことを付け加えて返答した瞬間があった。そのときK君は大いに笑った。笑ってくれて私は嬉しかった。しかし、ひとしきり笑った後、すぐにK君は私の目の前を立ち去って、皆に向かって大きな声で私が今話したことをさもK君自身が考えたことのように話し始めた。私は驚いた。K君の話したことに、皆が笑っている。でもそれは、本当は私が考えたことだ。私はすぐさまK君の後を追いかけて「それはぼくが言ったことなんだよ!」と皆に叫んだ。私の声は届かなかった。皆は笑っている。K君の周りで笑っている。取り残された私はなんとも言えない気持ちになって、一人ぼっちで体育館を出た。その記憶はいつもそこで終わる。

日常のふとしたときに思い出す記憶は、今までもすでに何度も思い出したことのある記憶である場合が多い。この記憶もその一つで、現状、私が思い出せる範囲で最も初期の頃のなんとも言えない気持ちになった思い出の一つとして胸に刻まれている。私は大人になってからも事あるごとにこの記憶を思い出している。今日もリビングでスマホをイジリながら、そろそろ服を着替えて出掛けるか、と思ったタイミングでふと思い出した。たぶんツイッターを見ていたからかもしれない。よく知らないライターさんがよく知らない会社のよく知らない商品の紹介記事を一本40万円で執筆したらしいという、手に入れたところでどうしようもない情報を見かけてなんとも言えない気持ちになっていたときに、胸の底から染み出すように過去の記憶が蘇ってきた。あのときのなんとも言えなかった気持ちに似てなくもない。しかし、過去と言っても保育園の頃の話だ。K君は、今頃何をしているのだろう。目鼻立ちの整っていたK君は私と違って女の子によくモテた。私の近所に住む友達の中で初めて彼女ができたのもK君だった。中学に入ってからは次第に付き合う友達も変わっていき、高校に入る頃にはほとんど顔を合わせることもなくなった。そんなK君は今、何をしているのだろう。私はブログを書いている。

最近の私はひたすら文章を書いている。文章を書いている間だけは、目の前に広がっている現実をすべて無視して、自分の内側にあるものをいかにして外へ出すかということに集中することができる。他人の気配のしないところで、この世界で自分がたった一人になったような気分に浸りながら、思ったことを思ったように書くことができる。去年の七月頃に、当時付き合っていた彼女と別れて本格的にこのブログに自分の思いの丈を書き散らすようになってから、私の精神は心なしか前よりも少しずつタフになってきているような気がする。本当ならもう少し誰が読んでも面白いと思ってもらえるような洗練された文章が書けたら良いと思うけれど、そういうのを目指し始めた瞬間から私にとっての文章を書く意味みたいなものがブレ始めていくような気もするので、なんとも言えない。

このブログはほとんど独り言のように書いている。でもふつうに生活していて、こんなに長く独り言をすることなんてまずないし、こんなに長く自分の話を聞いてくれる人もいない。誰にどう思われているかは知らないけれど、自分のしたい話をとことんできる場所があるというのは、気持ちの面でかなりラクになる。したい話ができそうになかった精神科の先生たちには、昨日、別れを告げてきた。また気が向いたら会いに行こう。

二人で話をするのと、三・四人で話をするのと、大勢の前で話をするのとでは、それぞれでかなり違う。単純には言えないけれど、聞き手の数が多くなるほど自分が本当にしたい話からはどんどん逸れていくし、人が沢山集まる場所ほど目の前の人からその人自身の根幹に関わるような言葉を聞くことは難しくなる。そこに大勢の人がいたというわけではないけれど、私が精神科の先生とどうしても上手くコミュニケーションが取れなかったと思ったのは、どれだけ話をしても相手の本心みたいなものに触れられないと感じたからだった。彼の頭には、最終的に、私に対して発達障害の人が集中力を高めるために服用する薬を勧めるという選択肢しか持ち合わせていないように思えた(私はいわゆる発達障害というものに合致するわけではないらしいけれど、発達障害の診断基準はすぐに変わるから、その薬も効くかもしれないという話だった。なんだそれ)。臨床心理士の方と昨日は話す機会がなかったけれど、残念ながら彼女とも自分のしたい話ができるようには思えなかった。どちらと話をしていても、叩いても叩いても返事の来ないドアに延々とノックをし続けているような気持ちになった。一対一で話しているようでいて、相手は私を大勢いる患者の中の一人としてしか見ていなかったのだろう。当然だ。医者とはいえ、それほど親しくもない人にブワッと吐き出すように身の上話を聞かせたがる私の方が、異常といえば異常なのだった。だからこそ、昨日診療室を立ち去るときにビジネスライクな挨拶をして部屋を出て行けたのは良かった。

現実世界で自分のしたい話をするためには、自分のしたい話を「聞きたい」と思って受け止めてくれる他者の存在がどうしても必要になる。けれど、そんな都合の良い他者とはふつう巡り合えない。そもそも相手もまた何かしらの悩みを抱えた一人の人間でしかないのだから、結局は相手のしたい話に合わせて自分のしたい話を変形して伝えることしかできない。相手のいる場所で自分のしたい話を100%話せているのだとしたら、それは相手が自分のしたい話を我慢して聴いているか、たまたまそれが相手にとっても聞きたいと思える話だった場合だけなのではないかと思う。だからこそ、本当に自分がしたいと思った話ができる人たちの存在は尊い

世の中の大部分は、本当に自分がしたい話を口にしないことで回っている。マクドナルドに入っても、本心から「いらっしゃいませ」と思って話しかけてくる店員さんはいない。私もまた今会ったばかりですぐ別れることになる店員さんに対して、知人の紹介で会うことになった初対面の人に「はじめまして」と緊張しながら挨拶するように声をかける必要はなくて、少しぶっきらぼうでも「アイスコーヒーと水をください」とだけ言えばいい。そういうものだ。私は会社で働いたことがないからわからないけれど、おそらく仕事をしている人たちも、社内で本当にしたい話をしているかといえばそうではないのだろう。夜道、腹を空かせた野良猫がか細い鳴き声を上げながら物欲しげに顔を擦り寄せてきたときになんとも言えないいじらしさと愛おしさが胸の底からせり上げてきて、思わずコンビニで買ったパンをちぎって与えたくなることはあっても、同僚や注文してくるお客さんにそのような感情が湧いてくることはおそらく絶対にない。

自分の本当にしたい話を押し殺して、当たり障りのない話をしながら、決められたことを決められた通りにこなしていくこと。多くの人にとって「働く」という言葉には、多かれ少なかれこのようなイメージがあるのではないかと思う。そういう風にして回っている世界があることを私は否定しない。でも、人が生きている世界はもっと広くて、その広い世界の中にたったいくつかでも自分を十分に解放することのできる場所があるからこそ、人は制限された条件の下でも「働く」ことができるのではないかと思う。人間だから、皆、大なり小なり問題を抱えている。でも、当たり前だけれど、働く現場はそうした問題を受け止めてくれる場所ではない。それぞれが抱えている問題を隠しながら、他の人たちと共にある種の平均的な人間像を演じ続ける場所だ。だから、自分の抱えている問題が他人から見て明らかに外へ漏れ出してしまっているような状態のときに、自分の気持ちを押し殺しながら「働く」ことなんてできない。そもそも、それほど親しくない人に対してまで懇切丁寧に振る舞わなければならないなんて、ある意味異常なことだと思う。そんな異常なことができるのは、心にゆとりのある人だけだ。

だとすれば、今の私にできるのはまず自分を解放させることだ。自分を解放させた先で、その解放の仕方・表現の仕方を磨いて、それを部分的にでも受け止めてくれる他者と出会うこと。そして出会った他者との関わりを足がかりにしながら、他のもっとたくさんの他者との関わり合いのあり方を模索していくことだ。その先にしか道はない。

というわけで、今日も書きたいことを書きたいだけ書いた。