部屋掃除療法

◎11月9日(月)

午後七時。マクドナルド。久しぶりにコーヒーを飲んだら、なんかいい。そういえばコーヒーってこんな味だったな。たまに飲むからいいんだろう。

 

インターネットを見ていても決して幸せな気持ちにはならないけれど、またインターネットを見てしまう。

かつて、インターネットが人と人との新しい繋がりを生むと持て囃されていた時代があった。あれから結局、何が起きたのか。誰でも発信できるようになって、個人レベルでの競争が激化した。たしかに新しい繋がりは生まれたけれど、同じタイプの人が蛸壷的に集まるようになった。既存のメディアの力が落ちて、情報空間においてさえ共通の基盤が無くなった、その結果、情報に合わせて考え方を変えるのではなく、考え方に合わせて情報を選択するようになった。人々を結びつけるものがなくなって、どんどんバラバラになっていった。ざっくり言えばそんな感じなのではないか。悪いところだけ書きすぎているような気もするけれど。

インターネットがフロンティアだった時代はもう終わったのだろう。これからはここ二・三十年の黎明期に人気を集めた一部の人たちが君臨する世界になるのかもしれない。

 

今日は部屋の片付けをしていた。まずは家をきれいにすること。掃除をすると、なぜか人生が前に進んでいるような気持ちがしてくるから不思議だ。

障子を外してすだれにしたら、部屋が一気に開放的になった。私が六歳から十八歳まで過ごした部屋だ。その間、一度も開け放たれることのなかった窓が今日を以って全開になった。嫌いだったなあこの部屋。何が嫌いだったのか、あの頃は分からなかったけれど。

この部屋の窓の前には、私が物心ついた頃からずっとキャスター付きの金属製のハンガーラックが置かれてあった。畳の上に、キャスター。それに金属製。この家は和風建築なので明らかにミスマッチ。なのに、ずっとあった。この家が空き家になってからもずっと。そういうものが多すぎる。これじゃあこの家を物置として取っておいているようなものだ。

家の内装は明らかに住んでいる人の心象風景とリンクしている。不穏な家に住んでいたら、心まで不穏になる。こんな部屋に住んでいたから、おれはこんな人間になったんだろう、そう思うことにする。箱庭療法を行うような気持ちで部屋を掃除する。テーマは、安心感と開放感。余計なモノはなるべく置かない。置物とか、人形とか、絵とか壺とか。本はいい。本だけは大量に置いておきたい。本を読むくらいしか娯楽がない状態になれば、こんな自分でも自然に本を手に取りたくなるのではないか。

 

大量の積読本がある。読みたいから買ったはずなのに、ここ数年、一冊の本を最後まで読み通すことができた試しがない。いやできなくてもいいのだろうが、そんな自分を恥じている。日常的に本を読む人に憧れがある。心から楽しんで本を読んでいる人。棚から本が溢れ返っているが、心から感動したと言えるものは数冊しかない。

結局、そのときの自分が抱えている問題意識と重なる本しか心に残らなかった。世の中には古典と呼ばれる本がいくつもある。苦しくても最後まで齧り付いて一冊の本を読み通す。そういう経験をしたことがない。くぐるべき試練をスキップして大人になってしまったような不全感が、心のどこかで燻っている。結局、おれはいつも分かりやすいものに飛び付いているだけなのではないか。

知ることへの飢え。学ぶことがそのまま生きることに直結する。そういう時代がかつてあった、という話を聞く。現状をより良くするには、現状を否定しなければならない。現状を否定するには、ありえたかもしれない他の可能性を思い描く想像力を持たなければならない。想像力。今の自分には想像力が足りない。よりよく生きたいという気持ちを失った瞬間に、虚無に飲み込まれる。現状に追従するだけになる。そうじゃない。本当はどう生きたいと思っていたのか。

頭で考えて「こうしよう」と思っても、それ通りに体が動いた試しがない。と言っても、何も考えずにいることもできない。

 

いろいろ考え事をしていたら、パソコンがフリーズして明らかに様子がおかしくなった。ヒヤッとする。ちょっと経験したことがない不具合だったので詳細は分からないが、おそらくブラウザでタブを開きすぎていたことが原因なんだろう。おれはタブを開きすぎる。すぐに興味が移ってしまう。ホームページを作っていたかと思えば、ブログを書いたり、youtubeで音楽を聞いたり。