12月25日(金)

 

雪が降りはじめた。雪とホコリは似ている。ホコリと言えば、塵を吸い込むと発ガン性があることで知られるアスベストニトリ珪藻土マットに混入していた‥とかって最近報道されて問題になったけれど、私もまさにそのマットを買ってしまったクチで、しかもカビを落とすためにヤスリで表面を研いたこともあったので、もしかすると多少なりともその塵を吸い込んだかも知れなかった。

将来、肺ガンになるようなことがあったら、私はこのときのことを思い出すのだろうか。心配したところで今さら肺を取り除くわけにもいかないので、どうすることもできないのだけれど。

実際あまり気にしていなかったのだが、一週間ぶりにあった父にさっそくこの件のことを「やばいじゃないか」とツッコまれたら、急に「やばいのかもしれない」と不安になってきた。不安は伝染する。不安をぶつけられると、こちらまで不安になるので困る。しかしよく考えたら、タバコを何十年も吸っている父のほうが危険なわけで、というか、高齢なのだから様々な面で健康でリスクはもちろん父の方が大きいのだから、冷静に考えたら、誰が何の心配をしているのか分からなくなる。

でも、そもそも不安とはそういうものだ。何が危険で何が不安なのか。リスクなんてそこら中に転がっているのだから、そのすべてを最初から取り除くことなんてできない。一つのリスクに過剰反応することで、かえって他のリスクを見逃してしまうことだってある。今の時勢に絡めて言うわけではないが、昨今のコロナ関連のニュースにしたって似たようなことを感じる。

 

独りで過ごす時間が長くなっている。日々の中で「そういえば昔こういうことがあった」とか「あのときこう思ったんだった」とか、いろいろなことを思い付き、思い出し、また忘れていく。未来とか過去に思いを巡らせる時間が長くなると、現在がおざなりになる。そうやって、気が付いたら今年ももう終わろうとしている。

 

今年は、今年という一年だけでなく、さまざまなことが終わっていく年だった。二十代の初めから続いていた一つの流れが、今年になって終わっていったような感じがある。今まで、人とのつながりの中で生かされてきた。ある人とのつながりがまた違う人とのつながりを生み、そうやって、私は他人よりもはるかに長いモラトリアムの時代を生きながらえてきたように思う。その間、ずっと社会の外側から社会を見つめてきた。おれはなんなのだろう、なんだったんだろう。いろいろなことを考える。

独りでぼんやり過ごしていると、今まで自分の経験してきたことが、すべて夢の中の出来事のように思えてくる。過去も現在も、現実も虚構も、炒めすぎた玉ねぎのようにトロトロになって混ざり合う。時が経っても、自分は同じことをただ繰り返しているだけなのではないか。関わる人が変わっても、自分の中にある思考パターンの雛形みたいなものは大きくは変わらないのかもしれない。結局、自分の目を通してしか世界を見ることはできない。

 

他人に対しては厳しい視線を投げかけるとができても、同じ視線を自分に対しても向けるのは難しい。