1月1日(金)

 

年が明けた。何年かぶりに実家で親族と一緒に年を越しているけれど、なんか「ゆく年くる年」に横浜中華街の寺がちらっと出てきたくらいで、NHKは中国に支配されているとかなんとかナチュラルに言い出して騒いでいる親族を見てしまい、単純に引いてしまった。そして、なんというか、自分自身の思想性というか政治性みたいなものについても改めて考えさせられた。

それが事実かどうか知らないし興味もないけれど、その前に、特定の国を嫌うという感覚が理解できなかった。政治体制を批判するとか特定の誰かが嫌いとかなら分かるけど、国という単位で「嫌う」という感覚が私には分からない。というか、そもそも外交の専門家でもない一市民が、国家間の問題を考えることに意味があるのか。とか、いろいろ思う。でも、言えなかった。

 

べつにおれは政治的な意見とか主張とかとくにない方だと自分としては思っているけれど、「これはさすがにこうでしょ」と思っていたものが親しいたちとの間でぜんぜん違うと、さすがにギョッとする。自分の考えに確信があるなら自分でそれを守らないと誰も守ってくれないんだな、という当たり前のことを思う。そういう年越しだった。べつに、普通にいい人たちなんだけど。だからこそ、思わぬところからいきなり冷や水を浴びせかけられたような気持ちになった。

人それぞれ意見は違う。でも、その上で物事を事実に照らして冷静に議論することは大切だと思う‥というと優等生的な感じがするけれど、実際、常識的に、そうだと思う。似たような意見を持つ者同士で頷き合っている姿というのは、相手がどんなに親しい間柄でも、やっぱり見ていられない。とくに集団で、自分たちの集団の外部にいる人を貶めて溜飲を下げている姿を見るのは、居心地が悪かった。

そういう私自身も何かしら偏った考えを持っているんだろう。当たり前だけど、すべてに対してフラットであることはできない。

でも、依って立つところは私という個人でありたいと思う。自分を信じる気持ちより、自分を疑う気持ちを大切にしていきたい。そして、自分自身を疑う気持ちがあれば、考えは自然とマイルドになっていくものだとも思う。

 

というわけで、新しい年が始まった。自分の過去の文章を読むと全て消すかひたすら修正し続けたくなるけれど、醜いままでも存在し続けることの方に意味があると思っていないと、やってられない。

そういう意味では、自分が醜いと思うものとも、共存していかなければならないのかもしれないと考えたりなどもする。