二月十二日

晴れまくっている。最高だ。こんな日は外出するしかない。

 

祖父の老人ホームへ向かう父の車に同乗して新潟市へ向かう。一人で電車に乗って行けばいいのに、なぜわざわざそんな真似をするのか。電車賃がもったいないからである。新発田ー新潟間は片道500円ほど。高すぎる。行って帰って1000円だ。馬鹿げている。新潟ー東京間の高速バスが3000円だと考えると、あまりに高い。所詮は田舎と田舎の移動でしかないものに、そんな金を掛けてたまるか。

晴れている空の下で、息を吸う。ああいい気分だ、と心の底から思う。この数ヶ月ほど陰鬱な気分に支配されていたが、それがたんに天気の問題でしかなかったことを実感し、安心する。来冬は新潟で冬を越さないように、どこか南の地へ出稼ぎにでも行きたいぜ。

新潟駅に着く。こんな街でも久しぶりに来ると心がウキウキしてくる。雑踏の中を歩くだけで心が洗われる。一人で生きているわけじゃないって気分にさせてくれる。「やっぱり田舎は良いなあ」などと言う人もいるが、当たり前だが良いところも悪いところもあるのである。この土地の冬の天気の悪さについては、ほんとうに最悪だと思う。やはり人はお天道様の下で生きていくべき。

 

新潟駅ビックカメラで展示されているiPadを見物する。こんな些細なひとときが、たまらなく楽しい。

たった三ヶ月ほどの実家生活で、私は別人のようになってしまった。横浜で暮らした約二年、鹿児島で生活していた約一年を経て、地元で燻っていた二十代前半の頃より感受性がかなり変わったような気がするのだが、昨年冬から新潟に戻って暮らしはじめたことで、そこからさらにものの感じ方が変化したような気がする。こんな風に何気なく外を歩くことさえ非現実的なようだが、それと同時に本来の自分に戻ったような懐かしい感じもして、なんだか不思議だ。

冬の間に培っていた「所詮はこれがおれの人生だ」といった頑な自己否定の感覚が、日の光に当たって、ゆるやかに溶けていくような、幸福な気分だった。iPad Air欲しい。

 

野暮用があり約四年ぶりに母校の大学へ行ってきた。当時のことを思い出す。見たことのない店が建っていたり新しい道が開通していたり、辺りの街並みが少し変わっていた。また、春休み期間中だからかコロナの影響だからか、構内はやけにガランとしていた。学部棟に入るときは少しだけ緊張したが、呆気なく用は済んだ。

いろいろなことを思う。同じ景色を違った気持ちで眺める自分がいた。当時のおれはやはり病んでいたんだろう。病むべくして病んでいた。それは、いわゆる薬を飲んで治るような病気ではなく、自分の人生の課題を引き受けようとするときに生じる重たい試練のようなものだったのだと思う。じゃあ今のおれは?分からない。試練を乗り越えて、強くなったのか。不感症になっただけなんじゃないのか。

 

帰りにスーパー銭湯に立ち寄る。思い出の銭湯だ。退学届を出すかどうか迷いに迷っていた頃、精神集中のためと称してこの銭湯でひたすらサウナと水風呂を往復するだけの数週間を送っていたことがあった。

実際、水風呂には物理的に変性意識状態を作り出す効果がある、と、勝手に思っている。経験上、百秒を越えるくらいから視界が冴え渡る。あれこれ考え事をしていても、水風呂内では思考が通常の回路から切り替わるのか、しばしば日常のマインドでは決して辿り着かない結論に行き着くこともある。結局あの時も水風呂に入って決意が固まり、担当教授と顔を合わせることができたのだった。

痺れるような多幸感に包まれながら「ああ、ただ生きたいように生きればいいだけなんだよな」「それなのに、自分で自分の問題を難しくしているんだよな」「でもそれが人間なんだよな」などとしばらく悟ったような気持ちに浸っていた。それから「おれはおれの居る場所をまず愛そう。ただ愛すだけでいいんだ」などとも思った。通常の自分では決して口にしないような安っぽい言葉が、ぽろぽろと脳のヒダから溢れてくる。そんな自分もいたのだと、後から振り返ったときにも思い出せるよう、ここに書き残しておかなければと思う。ガチガチに冷え切った身体を湯の中で温めながら、徐々に自分自身が日常のモードに戻されつつあるのを感じた。

 

開放的な気分で自由に思考を泳がせていたら、普段考えていることの中でいくつか符合するものがあった。ありきたりではあるけれど、やはり私は、子どもの頃から無意識の内に自分の意見や思いを引っ込めて、周囲の人の顔色を過剰に気にしていたんだなと改めて思い起こしていた。子供心の素直な気持ちが、自分自身でさえも気付かぬ間に挫かれていた。過去の自分から切り離されては、未来の姿を思い描くことはできない。未来は過去の先にある。過去の中にこそ、自分の進むべき未来がある。

おれは何をしたかったのか。何を望んで何に挫かれたのか。

 

湯上がりに鏡の中に映る自分は、もういい歳こいた大人だった。しかし、心の中は、自分の望みを家族に遠慮して伝えられなかった小学生の頃の記憶でいっぱいになっていた。当時の自分に戻ってしまったかのような気持ちだった。思春期以降の、混乱した軌道を描きながら生きてきた今までの自分の姿が目に浮かぶ。こういった記憶も、普段ならほとんど思い出すこともない。