二月十四日

今日は疲れて一日寝ていた。昨日今日と歩きすぎた。

 

夜、家庭教師をしていた子からちょっとした相談を受ける。迷いながら返信。少し冷たかったかもしれない。

 

他人から何かを相談されるとはどういうことなのか考える。人はしばしば、自分で自分が何に困っているのかさえ分からなくなることがある。相談を受ける側からすれば、何をどう困っているのかを具体的に伝えてくれるとその後の流れがスムーズだから望ましいのだが、事態はなかなかそう進んではいかない。そもそも自分で自分が何に困っているのかを把握できていたら、もう半分くらい問題を解決しているようなものなんだろう。かと言って一方的に手を差し伸べすぎても相手のためにならないし、こちら側の負担も増すばかりになる。相手の問題を自分が肩代わりする方が楽に思えるときもあるが、長い目で見たとき、それでは相手を助けたことにはならない。

 

自助・共助・公助が大切だ、まずは自助が大切なんだ、自分で自分を助けることが大切なんだと菅総理が言っているのに私はどちらかと言えば反対で、いわゆる自己責任論的な、社会の問題を個人に押し付ける論法でいやだなあと思うのだけど。相談してくれた子に対して自分がした振る舞いは、結局「まずは自分でなんとかしてみよう、ダメなら担当の先生に聞いてみよう、それでも困ったらまた私に聞いて」というもので、要するにこれも自助を推奨しているようなものではないかと少し考えてしまった。もったいぶってないで答えを教えてあげれば、自分にとっても相手にとっても、それが一番簡単といえば簡単だ。それに、別の先生に聞いて、というのは、たらい回しをしているようなものではないのか。そういう疑問が、自分でも湧いた。

しかしまあ、最終的にはなんとかなってくれるだろう。なってほしい。コミュニケーションの回路さえ閉ざさなければ必ずどうにかなると信じている。人によって遅い早いはあるだろう。でも、必ずなんとかなる。

 

昼間たっぷり寝たので、夜も目が冴えている。有吉弘行のサンデーナイトドリーマーを聴いた後、NHKラジオ深夜便でラジオ文芸館を聞く。日曜夜のラジオは面白い。

今日のラジオ文芸館は、石田衣良の「火を付ける人?」だったかタイトルは忘れた。定年退職した六十代の男が主人公で、その男は子どもたち相手に東京の公園で焚き火を教えるボランティアをしているのだが、そこに晴れない顔をした青年と内気そうな男の子がいつしか加わるようになり…という話。青年は鬱で休職中、子どもは不登校なのだが、焚き火を教えたり焼き芋を一緒に食べたりするうちに心が通うようになっていく。いい話だった。

おれも頑張ってもう一度会社に行ってみるから、きみも頑張って学校に行ってみようと勇気付ける青年。人間なんて本当に大切なことをいくつか他人に伝えられたらそれでいいのではないか、と控えめな優しさで青年と子どもたちを見つめる老齢の男。ある種、理想的な姿だと思うけれど、こういう理想こそ今の世の中に必要なものなんじゃないか、とか思った。こんな風に火を囲っているうちに自然と関わりが生まれていたというのも良いなと思う。