二月十六日

数日晴れたが、また寒さがぶり返して私ももうダメである。もちろん私がダメなのは天気のせいばかりでなく私自身の行いによるとは思うが、ここは天気も大いに関係していると言いたい。なぜなら今の私の世界にとって、天気は最大の他者だからだ。

実家生活も四ヶ月目に入り、私の世界はすっかり縮小してしまった。私の住む世界にはもはや私しか住んでいない。私と天気、以上である。私は毎日、天気の顔色を窺い、天気の調子が良くなることを願い、天気に愚痴を言う。天気が晴れれば私の心も晴れ、天気が崩れれば私も崩れる。天気とは意思の疎通ができないのに、毎日、天気の都合に引っ張り回されている。天気に対して私は完全に無力。

さてそんな私の世界の隣には父が、またその隣には祖父もいるが、彼らは(私含め)自分の世界に精一杯で、同じ世界に住んでいるとは言えない。これは私の親族に限った話ではないと思うが、男性、しかも年齢を重ねた男性というのは、相手の話にゆっくり耳を傾けるということができないものである。彼らと話をしても、とにかく自分が話すことしか考えないので、言葉のキャッチボールにならない。会話をする前からすでにはっきりとした形で信念が固まっているのだ。何事につけても基本的に信念の定まらない私のような人間が彼らと話をすると、どうしても聞き手、というか守勢に回らざるをえず、それはときに疲れるのだが、最近では私も私であえて自分のしたい話をボンボン投入して両者の間にキャッチボールを無理に成立させないというライフハックを使えるようになってきた。というか私にはどうも他人の話を受け止めすぎるきらいがある。他人の話なんて半分くらい聞き流せばいいのだ。なんにせよ気にしすぎなんだおれは。

知らぬ間に家族への愚痴、というか、自己反省のような文になってしまったがそんなつもりはなかった。とにかく天気が悪いのだ。ここのところの強風は家が揺れるほどの勢いで凄まじい。また風の轟音というのは人間の精神を掻き乱す作用があるように思う。数日前の晴れやかな気持ちが嘘のように心は冴えない。カーテンを開ければ横殴りの霰が窓の向こうに見える。こんな日に自転車で外を移動したくなる人なんているのだろうか。世の人はこんな日にも自分を無理に駆り立て仕事に向かっているのだろうか。いるのだろう。大変なことである。私は社会に適応できるのだろうか。

ただでさえ面倒なことをあれこれと考えて気に病みがちなのに、こんな日は余計にさまざまな思いが吹き荒れる。頭の中で次々に湧いて出るざわめきは、普段はスマホのメモアプリかなんかに書き留めたりしてなんとか自分という一人の人間としての同一性を保っているけれど、こうして嵐のようになった日には、そんなものでは対処できない。突然、大きな声を出して歌うとか、こうして一気にまとめて日記を書くとか、そういう強めの処置が必要になる。風船のように膨れ上がった思考にプスっと小さな針を刺し、内部の圧力を下げるような具合である。

よかった。こんな日はとくに、おれに日記があってよかったと思う。