7月9日(金)

ふいに鏡を覗いたら頬から一本、まゆ毛ほどの長さの毛が伸びていた。今朝ヒゲを剃ったばかりなのだけど、そのときに気が付かなかったとでもいうのだろうか。こんなにも伸びているのに。

たしかに今朝はバタバタしていた。今日も午後からの出勤で、ふつうに考えたら時間に余裕はあるはずなのだけど。

今日も昼前頃まで寝ていて、睡眠時間もふつうの人よりは十分多く確保できているはずなのだけど、最近は目が覚めてもあまり疲れが取れておらず、起きてからもボーっと冴えない意識のまま時間を無駄に使ってしまう。

疲れているのだと思う。体力的にもそうだけど、精神的にも疲れている。

精神的な疲れとは何か。ありがたいことに今の私は、周囲の環境から何かとくに強いストレスを受けて苦しんでいるわけでも、困難や不条理に直面して困っているわけでもない。じゃあ何なのかと言えば、それはシンプルに言って日々に潤いが足りないということなのだろうと思っている。生きることの喜び。英語で言うとJOY。今のおれにはJOYがない。ああなんか分からないけれどすごい楽しいなあみたいなそういう感覚を久しく味わっていないような気がする。世相もずっとそんな雰囲気が覆っている。

この数ヶ月、とにかく自分の生活を成り立たせるということに注力してきた。とにかく金がなかった。

働き始めてからも当たり前だがすぐに給料が振り込まれるわけではなく、入社したての最も過酷な時期を経済的にも厳しい状況で迎えたのは、今にして思えばそれなりに大変だった。

とは言っても、こういうことを言うとすかさず思うけれど、まだ私は恵まれている方なのだろう。世の中を見渡せば、私より厳しい状況に置かれている人は五万といる。困ったときに帰れる家があり、いざとなれば頼れる身内もいる。コロナで仕事や住居を失った人たちの報道を見るたびに心が痛む。しかし、とはいっても私は私で主観的にはそれなりに大変ではあったのだった。最近になって、ようやくひと段落した。

話は変わるけれど、こんな風に私にはどうも、自分で自分の置かれた状況をどう定義すればいいか分からないところがある。今の私の生活は、厳しいと言えば厳しいけれど、恵まれていると言えば恵まれている。生活困窮者・社会的弱者といえばそうなるのかもしれないし、そうならないのかもしれない。自分の置かれた立場からしか、何かを書いたり話したりできないと思っているのだけれど、その立場というものがどこにあるのか自分でも分からない。

どのような文脈を想定するかで解釈が変わる。たとえば月収とか年収とか、そういう社会的経済的に数値化できる尺度で測ったら、今の私の生活は間違いなく下層に置かれるのだろう。しかし、もちろん人生の全てをそんな風に数値化できるわけがなく、私の辿ってきた人生もそう捨てたものではないと主観的には思っている。とはいえ、それとこれとはまた別に、経済的な尺度を無視できるものでもないとも思っている。なんというか、この辺りのことについてはいろいろ考えているのだけれど、いつもうまく言葉にできない。

 

もう長いことコンビニでアイスを買っていないような気がする。気に入った服を手に取るということも、気ままにどこかへ出掛けるということもない。気晴らしにどこかへ出掛けたいなあ。